残された人生の生き方を求めて

平均寿命まではまだまだですが、50代後半に差し掛かって、残された時間で、本当に知りたかったこと、そしてその答えを探していくなかで、お念仏に出会いました。私の考えたことや、その手助けになった本や体験を書いていきたいと思います。

極楽浄土の存在

今現在、私は念仏を唱える毎日を過ごしています。
しかし、実際に自分で念仏を唱えるまでには、時間がかかりました。
浄土の教えそのものには、ずいぶん前から納得はしていたと思います。特に『歎異抄』に書かれている内容は論理的であり、私にとっては、大変説得力のある内容でした。それでも、すぐに念仏を唱えるようにはなりませんでした。

梅原猛先生が著書『親鸞の告白』の中で書かれています。
歎異抄』の熱烈な愛読者と自認しながら、自身の信仰に関してこう書いています。

あえていうならば、世俗の偽善を謗(そし)り、おのれの煩悩(ぼんのう)の地獄を凝視する親鸞はよくわかるのだけれど、阿弥陀の本願を信じ、必ず極楽に往生するにちがいないと思って欣喜雀躍(きんきじゃくやく)して念仏する親鸞は、よく理解できなかった。いや、理解できないというよりは、近代人としての私自身の理性がそれを拒否していたのだ。
親鸞の告白』梅原猛=著 小学館文庫

梅原先生と私を同列にするのは失礼かもしれませんが、かつての私の感覚も、この梅原先生に近かった気がします。

私にとって、まずは阿弥陀仏の存在や、浄土の存在が問題でした。
存在しないものを信じることはできない、それこそ盲信ではないか。いくら『歎異抄』に納得できて心を動かされても、本当に存在するのか分からないものを信じきれなかったのです。

一方、阿満利麿先生の本の一節が、心に引っかかっていました。明治の宗教哲学者で、東本願寺の僧侶でもあった清沢満之氏の言葉をとりあげています。清沢氏の文章を孫引きするようなかたちになりますが、阿満先生の本から引用させてもらいます。

清沢が例にあげているのは、「地獄」や「極楽」の問題です。科学の見地からすれば、「地獄」や「極楽」の存在は証明することはできません。その有無は、科学によって決定できないことがらです。むしろ、「地獄」や「極楽」の問題は、宗教において解決されねばなりません。(中略)
清沢は、「地獄」・「極楽」をめぐる疑問は、宗教的信仰が未成熟な段階で生じ、信仰が「成熟」するにしたがってほとんど問題にならないという事実に注目し、「地獄」・「極楽」の問題は、信仰の世界において解決されねばならないと主張しています(「科学と宗教」)。
『人はなぜ宗教を必要とするのか』阿満利麿=著 ちくま新書

私はこの中の、信仰が成熟すれば「地獄」・「極楽」の問題はなくなる、ということに、「本当なのだろうか」と思ったのです。
そうならば、そうなってみたい、と思いました。
その頃の私は、「極楽」や「阿弥陀仏」を信じたかったのです。だけど、「そんなものは実在しないだろう」という思いがあったわけです。

私は、宇宙や物理学に関する本を読むことも好きでした。そして宇宙の大きさに惹かれていました。
そんな私は、宇宙にはこれだけの星や銀河がある以上、どこかに「極楽」が存在していてもいいのでは、と考えました。
また、物理学からするとこの世には11次元まで存在するというのです。私が想像できるのはせいぜい4次元、そして5次元くらいはあるかもしれないと思えても、11次元など想像もできません。ですが、たくさんの物理学者が理論的に11次元の存在を唱えているのです。
同じように、私の想像を絶するかたちで、別次元に「極楽」「阿弥陀仏」が存在するのかもしれない。11次元は偉い物理学者たちが唱えているから信じられるのに、「極楽」は信じないのはおかしいではないか、とも考えました。

しかし結局、そういう納得のしかたは違う、と思いました。
なぜなら、「極楽」を、あくまでも「科学的」な装いで信じようとしているからです。それは違うのではないか。結局「科学的」と思えることしか信じられない自分の限界を感じていたのです。

ですが徐々に私は、「極楽」や「阿弥陀仏」を信じたがっている自分に、気が付いてきました。信じたければ信じればいいじゃないか、という考えも心の中で生まれ育ってきたのです。
それが「科学的」かどうかなど、問題ではない。私がそれを信じることで、心が救われて穏やかな日々を過ごし、より良い人生を生きることができるならば、信じればいいではないか。そういう思いが強くなっていきました。

 そしてある時から、自分で念仏を唱えるようになったのです。
この念仏が実際に口から出てきたことについては、とても大きな出来事だと思うので、また改めて書いてみたいと思います。

最後に、最近読んだ本で「そうだ」と強く納得できる文章があったので、紹介したいと思います。

前にわたしは、「浄土はあるか?」と問われて、懇切丁寧に応えた。しかし、そんな質問をする人は、こちらが親切に百万言を費しても、絶対にわかろうとしないのだ。はじめからわかろうとする気がない。(中略)どうせ質問者は、「あってもなくてもよい浄土」を問題にしている。「あってもなくてもよい浄土」であれば、なくてもよい。わたしたちが問題にしている浄土は、
「なければならぬ浄土」
である。「なければならぬ浄土」は、絶対になければならぬ。
そうなんだ!「あってもなくてもよい浄土」は、なくてもよい。「なければならぬ浄土」は、なければならぬ。まさに簡単なことである。なんだか拍子抜けがしそうなくらいである。
『わがふるさと浄土』ひろさちや=著 法蔵館

 

酒井義一氏のご法話を聴いて

今年(2020年)に入ってコロナウイルスの影響があり、講演や法話を聴く機会が少なくなってしまいました。そこで、Youtubeなどのサイトで講演や法話を聴く機会が多くなりました。
その中で、つい数日前に視聴した法話について、書きたいと思います。
講師の方は存明寺ご住職の酒井義一氏で、2016年のものです。酒井先生はグリーフケアに関する活動もされているようです。

もっとも、私の感想を読んでもらうよりも、ネットで公開されていますし、直接聞いていただいた方がはるかにいいと思いますので、私の感想の後に動画を埋め込みたいと思います。

少し前に、私は自分の挫折歴にふれました。それは、事業に失敗して破産したことです。もう一つ付け加えれば、同じ時期に家庭も崩壊したのです。
ちょうど、事業に失敗したことをブログに書いた直後に、この法話を視聴しました。
まさに、私が挫折をして、新しい生き方を求めてこのブログも立ち上げたこと、そのことを、酒井先生のお話は指摘しているように感じたのです。

法話の中で、強く印象に残っている点は二点でした。どれも私のことを話しているのだ、と思える内容でした。
詳しく書くと、話の内容そのものになってしまうので、詳しくは書きません。そのうえで、興味がある方は、是非とも動画を視聴してみてください。

その印象に残っていることの一つは、法話の中に出てくる傘地蔵のお話にあるような内容のことです。
もう一つは、人は自分の悲しみや苦しみを語ることができる居場所を求めている、というお話です。
特に後者は、私がこのブログを立ち上げたのも、その理由からなのかもしれない、と感じました。

この法話を視聴した後に思いました。
新しい生き方をを求めている私ですが、何か具体的な動きを始めているのだろうか、ということです。このブログもその動きの一つかと思いますが、このブログは独り言の世界です。

何かを始めたい。ダメダメではあったこれまでの生き方ですが、その生き方も「よかった」と思えるようにしたいのです。
それは、自分一人の世界だけを考えるのではない、決して大げさで派手なことではなくても、行動をして実践していく道を私は欲しているのだ、そう思いました。

 


大谷祖廟 暁天講座(2016年8月2日 酒井義一氏)

 

ある法話会にて

ある法話会に参加をしました。
浄土の教えに関する法話でした。

お話の後に、講師の方が参加者からの質問を受ける時間を設けてくれました。
その時、ある年配の女性が、何度も質問をしてきたのです。

その質問内容は、仏教や浄土の教えに関しては、かなり初歩的な内容でした。初歩的とは、少し興味を持ってその関係の本を読んだり、ネットで調べれば解決する内容だったのです。
また、ほかの宗教との比較をして、他宗教についての質問もしてきました。講師の方もおそらく、他宗教に関しては専門外でしょうし、質問の内容も、今日の話からずれてしまうことも度々でした。

講師の方は、その女性に丁寧に答えていたのですが、ほぼその人と講師の方とのやりとりになってしまいました。周りの参加者は明らかに、途中からうんざり、という空気になってきました。
的外れな質問内容だった時には、失笑する参加者もいました。

私は、その失笑する人たちに対して、いい印象を受けませんでした。いかにも「そんなことも知らないのか」という嘲笑に感じられたからです。
ですが、私自身もその女性に対しては、苛ついていたのも事実です。
そんなことは、少し自分で調べればわかるのに、わざわざ直接質問を受けてくれるこの場で聞くことではないだろう、と感じたりしたのです。

しかし、その女性は何度も食い下がって質問を続けて、他の人があまり質問できないまま、その法話会は終わりました。
出口に向かう通路では、その女性に対して不平や笑いの声が、参加者たちの中から聞こえてきました。

私も不満を感じつつも、一方で、なにか心に引っかかるものを感じていました。
そして、帰宅してから、その日の引っかかるものを考えてみると、その女性こそ、阿弥陀様に真っ先に救われる人ではないか、と感じたのです。

印象に残るのは、その人の必死さでした。
自分の好奇心から発した質問もありましたが、何よりその人は必死でした。
浄土はどんなところなのか、キリスト教でいう天国なのか、今この生活がどう変わるのかなど、とにかく知りたい、という感じだったのです。
このような人こそ、本当に何かを一心に信じることができるのではないか。もし阿弥陀様の誓願を信じるようになれば、間違いなく真っ先に救われる存在になるのではないか、と思いました。

一方の私は、やはり周りの目を気にして、実は聞いてみたいこともあったのに何も言いませんでした。周りの人を思いやってではありません。平たく言えば、いい格好がしたい、周りから良く思われたいだけなのです。
その人は、いい格好をしたいなどとは、思っていなかったでしょう。邪心がない、とでもいえばいいのでしょうか。

しかし、こう書いてしまうと、別の疑問も起こります。
それならば、周りの迷惑を考えずに自分の思いに従って行動することが、「邪心」がなく良いことなのか。空気を読まないことは、格好をつけていないことだから、良いことなのか、ということです。
その人は、明らかにその場の空気を読んでいませんでした。

私がこれまで本を読み、講演・法話を聴いていたなかで、「宗教」と「道徳」とは違うのだ、ということが度々出てきました。
道徳的な観点からすると、法話会でのその人の空気を読まない行動は、話題を脱線させたり、他の人の質問時間を奪ってしまったりして良くないことだったしょう。
しかし宗教的な観点からいうとどうなのでしょう。

そういう観点から考えると、良い悪いではない、と思います。
その人はその人なりに、必死の問いかけをしていた、その事実だけがあり、それはその人にとって必要なことであった、ということです。
そして私は、それができない人間だった。それは、周りを気にしていい格好をしたいからです。その人に比べると、必死の問いかけなど私にはなかったのかもしれません。
私が何も言わなかったことは、「格好をつけたい」という自己中心的な感覚からであり、そんな私が、質問時間を独り占めしたからといって、その人に対して苛ついたりできないだろう、と思いました。

私も、その人みたいに周りを気にせず、聞きたいことがあれば遠慮なく聞けるようになれれば、とも思います。
だけど私はどうしても、周りの目を気にして、格好をつけてしまいます。以前も触れましたが、これはもう私の一部といってもいいかもしれません。
私は、その人みたいになれないのです。

ここで今の私は、あることに気がつくことができて、少し心が救われます。
それは、阿弥陀様の誓願は、そのような私のために向けられているのだ、ということです。

損することと得すること

阿満利麿先生の本の中で、強く印象に残っている一節があります。
歎異抄」を訳された本で、第三章の阿満先生による解説の部分です。

自己の欲望を追及することが人生という近代以降の風潮のなかで、自己中心であることが原因で起こる摩擦、軋轢、悲劇を認め、自らを「悪人」と意識する困難さを指摘し、次のように続けます。

このような人間が自らを「悪人」だと意識するにはよほどの条件が整わねばならないだろう。
その条件の一つは、飽くことのない自己中心の生き方が挫折するときであろう。その時はじめて、自分の欲望追及のためにどれほどの人々の願いが無視され、踏みにじられてきたか、に気づかざるをえない。

歎異抄』阿満利麿=訳・注・解説 ちくま学芸文庫

特に「どれほどの人々の願いが無視され、踏みにじられてきたか」という部分には、衝撃を受けました。
この言葉を我が身にあてはめて考えたとき、私ははじめ「まさか、いくらなんでも私は、そこまでひどいことを他の人たちにしてこなかったはずだ」と強く否定する気持ちが働きました。いえ、否定したい気持ちが働いたのだと思います。
しかし、本当に否定できるのでしょうか。

度々私は、現在の私はドン底状態ということを書いてきました。
それを詳しく書くと、不幸自慢になりそうで書きたくはないのですが、一つ明かしてもらえば、私は小さな会社を営んでいて、それが倒産したのです。
チビ会社といえども、経営者として働いていました。
経営していたときに、ふと感じたのは、損と得に関してでした。会社の経理・会計をしていて不思議な思いにとらわれたのです。

経理を行うときには1円の違いもないように、記録していきます。
売上、仕入れはもちろんのこと、光熱費、人件費、細かな消耗品類、支払い利息、また逆に預金についてくる利息等々。
会社のお金の出し入れ、動きを1円のミスもなく記録して、利益や損失が出てきます。その利益も1円の狂いもなく、預金口座や手元の現金などに振り分けられ、実際にその金額が手元にあるわけです。
世の中の会社がすべてこのように、1円の狂いもなく金銭を管理し、利益か損失を出しているのだとしたら、私の会社で利益が出ると必ずその分、別の会社や個人が損をしているはずです。

経済のことがきちんと分かっている人からすると「いや、それはね…」といわれるかもしれませんが、私がプラスになれば誰かがマイナスに、私がマイナスになれば誰かがプラスになっていることは、基本的に間違っていないと思うのです。
私は、経営をしているとき、そのことがなんとも不思議でした。その「お金」というものの存在と流れとでもいうのでしょうか。

私の事業がうまくいったときは、誰かが泣いて、そして赤字になった時には、誰かが幸せになっていたはずです。そういうことは以前から頭ではわかっていたと思います。それが切実に感じるようになったのは、自分の会社が倒産してからでした。
自分自身がドン底になってはじめて、これまで私が自分の願いを叶えることによって「どれほどの人々の願いが無視され、踏みにじられてきたか」を実感したのです。
人をだましたり、ずるいことをしてきたつもりはありません。ですが、私が得をすることにより誰かが泣いていたことは間違いないと思えたです。

情けなく、悲しく思うのは、こういうドン底状況にならなければ、そのことが実感できなかったことです。繰り返しますが、頭では分かっていたのです。私がプラスになれば、誰かがマイナスになることは。

誰かが得をすれば誰かが損をすることは、世の常であり、仕方ないことだと考える人もいるかと思います。きっと以前の私もそう思っていたのでしょう。
誰だって好んで損はしたくはないですし、利益を得るために働いて、日々努力をしているのです。それによって一方で、損をしてしまう人がでてきてしまうことは、仕方がないことかもしれません。

しかし、今の私には、この世界に身をおきながら、自己の欲望追及をしてきたことが、結局自分を苦しめる結果を生んだ気がしてならないのです。
そして今の状況を、とても「仕方ない」とは受け止められないのです。そして、受け止められない、というのも自己中心的な考えがあってのことだと思うと、もう、まったく出口は見つかりません。

だとすれば、私はどうすれば心が穏やかに毎日を過ごすことができるのでしょうか。
まさにそのような私のために、阿弥陀仏誓願があると思えるのです。
なぜ、ここで阿弥陀仏誓願に結びつくのか。この記事を読んだ人の中には不思議に思う人もいるかもしれません。
それは、まだなかなか言葉で表すことができないのです。よく自分自身で考えて、いずれ書いてみたいと思います。

念仏と共に生きる

久しぶりの更新です。8月以来でしょうか。
それほどたくさんの人が見てくれているブログではないのですが、さすがに間が開き過ぎですよね。
色々書きたい事もあったのですが、生活が変わって時間がなかなか取れなくなったこと、そして考えるところもあり、新しい記事をアップせずにいました。

自分の生き方を考えていきたい、その考えの過程を残していきたい、そういう思いで約1年前にこのブログをスタートさせました。
しかし、この数カ月の間に、私はある決断をしたのです。
いえ、決断などというと仰々しいかもしれません。何と言うか、ある思いが定まったのです。それをブログにあえて書くべきか、それとも今まで通り書いていくか、考えていたのです。
それほど多くの人が読んでいるわけでもないのに、気にし過ぎかもしれませんね。でも一応、世間に向けて発信しているわけですから。

その決断とは、お念仏と共に生きていく、ということです。
阿弥陀様の世界に生まれさせてもらえるように、生きていくことにしました。

実はこのような道を進むことは、約1年前に、このブログを始めた時からわかっていたことかもしれません。
このブログの記事をはじめから見てもらえれば、お浄土の教えに関する記事が多いのは事実です。
実際私には、このブログを始めた頃にはすでに阿弥陀様を信じる気持ち、いえ、もう少し正確に言うと、信じたい気持ちがありました。自分を救ってくれて、よりよい生き方を示してくれる道に思えたのです。
ですが一方で、「本当に自分は阿弥陀様を信じられるのか」「そんなあるか分からない極楽浄土を本当に信じるのか」とも考え続けていたのです。
最初から結論ありき、ではないのか。そのためにこんなブログを書いているのではないか。そんなことを、思ったりもしました。
ですが、今の私にはその道しかないし、それが本当に生きる道に思えるのです。

こんな感じでカミングアウトするのにあたって、このブログは閉鎖したほうがいいかもしれない、もし続けるならば「お念仏に生きる」とかいうタイトルで新しくブログを立ち上げた方がいいのかな、とか考えました。

しかし、これまで書いてきたことも決して嘘ではありません。私の考えの遍歴として、その連続性を残していくのも、意味のあることかもしれない、と思いました。
また、私の心や考えというものも、いつまでも同じではありません。それこそ、全てのものは移り変わることは仏教が説いていることです。だから、もしかしたら後に「やっぱり、阿弥陀様なんて信じられない」「信じていた気になってただけだった」という考えに変わるかもしれません。
もしそうなったとしたら、その変化を記録しておくのも、私にとって必要かもしれない、と思いました。

もっとも、この阿弥陀様の本願を信じる、ということは、あらゆることが変わっていくなかで、私にとって唯一変わらないもののような気がするのです。それは信じるに至った過程を思うと、変わりようがないと思うのです。

それでも、信じることが変わることを無理に拒むのは、おかしなことでもあります。信じられなくなったら、信じないだけです。そして、その可能性も絶対ないとは言い切れず、「変わらない」と言い切るのもおかしいと、今の私は感じます。

この数ケ月で私の生活環境も変化をしました。
その間、読んだり聴いたりした話の中で、今回、お念仏と共に生きよう、という決心につながったこともあります。
それらも、いずれ書いていきたいと思います。
しかし、今書いたように、生活の変化があったため、なかなかパソコンに向かう時間もとれなくなってもいます。それでも少しずつでも、私の考えの遍歴を残していきたいと思います。

「残された人生の生き方を求めて」というブログタイトルは変わりませんが、ブログの説明記事は少し変えました。
また、ブログ開設時に書いたトップの固定記事も、下げることにしました。
今後は浄土の教えに関すること、阿弥陀様の本願を信じてお念仏をすること、それに関することが増えるとは思いますが、これまでと同様に私自身が考え感じた様々なことを書き留めていきたいと思います。

自分の欲深さ

私も色々なことをこのブログで書いてきました。
少し読み返すと、「随分、偉そうだな」と自分で恥ずかしくなる記事もあったりしますが、これも一つの記録なので消さないで残しています。

偉そうなことも書いているくせに、相変わらず欲深くダメな自分を痛感する出来事があったので、反省も含めて書いておきます。

私の手元に、何年か前に買った生活雑貨が何個かあります。贈答用にまとめ買いしていたものが余ったのです。
定価は2万円近くするもので、なかなか良い品なんです。

私が持っていても使う予定はないですし、かといって捨てるのはもったいないので、某フリマサイトを利用して売ることにしました。
2万円近くしたのですが、もう買って何年もたつので、5千円ほどで値をつけました。
私は、5千円では売れないと思いました。いくら元が高い品でも、未使用とはいえ中古品ですから、5千円で買い手がつかなければ値下げしようと思ってました。

ところが、出品した後、2~3日の間に、購入希望者が数名現れ、しかもその内の2名はすでに入金してくれていたのです。
私は喜んで、配送の準備を始めました。こんなによく売れるなら8千円からスタートすればよかった…なんて思いながら。

発送するために、もう一度商品に傷はないかチェックしたところ、なんとその商品全部に、シミらしきものが見つかったのです。
フリマサイトに乗せる時に、写真も掲載したのですが、写真では分かりません。私もその時まで全く気が付かなかったのですが、明らかに保存状態が悪かったためのシミでした。

これはまずい、と思った私は慌てました。
そもそも私は、こういうフリマサイトに不慣れなため、サイト管理会社にどうすればいいか問い合わせました。なにしろもう、支払ってしまった人がいるのです。おそらく、クレジットカードの決済でしょう。その人たちには、手数料なども含めて全て返金されなくてはいけません。

キャンセル方法、返金のしくみなどを確認して、購入者の方にキャンセルのお願いをしました。
ある人は、多少シミがあっても譲ってほしいと言ってくれました。またある人は、値下げして売ってもらえないか、と言います。何人かの人と何度かメッセージのやり取りをしました。
ですが、結局すべての人にお詫びしてキャンセルしてもらいました。

もう、そこまでのやり取りで私は正直疲れてしまったのです。
その数日間は、売れたときの「やった!」という喜び、「もう少し高くてもよかったかな」というちょっとした後悔、シミが見つかってからの焦りとドタバタ、購入しようとしてくれた方たちには本当に申し訳ないのですが、私はもう疲れてしまったのです。

これも私が、お金が欲しい、できれば少しでも多く欲しいと考えていたからです。
そんなこと考えて行動することが、結局自分の苦労に跳ね返ってくることは、この一年考え続けて分かっていたはずなのに、です。

さんざん『無量寿経』のことも書いてきたのですが、その『無量寿経』には、世のあり様が、しっかりこう書かれているのです。

こうして憂え、苦しみ、物を求めようとしても、思いどおりに得ることはありません。思案しても益なく、心身ともに疲れて起居ともに安らぎなく、憂いと思惑がからみあって苦悩を増していきます。
『全文現代語訳 浄土三部経』大角修=訳・解説 角川ソフィア文庫

結局、私の手元には処分できない生活雑貨が残りました。どこかに寄付するか、知り合いに声をかけて譲ってしまうか、思案中です。

ただ、私は別にこういうフリマサイトを批判したり、それを利用する人を批判するつもりはないのです。
不用品を有効利用するのは悪いことではないでしょう。捨てるのはもったいないからとこういうシステムを利用する人はいるでしょうし、その取引自体を楽しんでいる人も沢山いると思います。
楽しめる、ということは自分の利益にさほど固執していないからだと思います。そういう人たちにとっては、問題ないシステムだと思うのです。

だけど私は、きっと欲が人一倍強いのです。今回のことも欲が強い分、最後は気持ちが疲れてしまいました。
私が、こういう取引をゲーム感覚で楽しめて、利益が少なくても気にしないタイプなら、つまり欲がさほど強くないならいいのでしょうが、悲しいかな、私はやはり欲深いタイプの人間なんです。
私のような人間は、手を出すべきではないのでしょう。

そういう自分を改めて実感させられる出来事でした。

「縁」という考えがもたらしてくれたこと

仏教には「縁」という言葉がよく出てきます。
「因縁」「業縁」「縁起」など、「縁」はひとつのポイントになっている気がします。
そして、今の私は「縁」というものを強く実感しています。

この記事を見てくれた人には「縁」についてよく知らない人もいると思います。少し説明しなければ、と思うのですが、私がよく取り上げさせていただいている、阿満利麿先生の本に、大変分かりやすい説明があるので、少し引用させていただきます。

「因縁」の「因」は、直接的な原因を意味します。それに対して、「縁」は間接的な原因を指します。(中略)
深酒をして翌日頭が痛いという時、頭痛の原因が昨夜の深酒にあることはよく分かりますし、深酒が頭痛の直接的原因であることは、疑う余地はありません。しかし、どうして深酒をしなければならなかったのか、をふりかえると、仕事が順調に運ばなかったことや、人間関係に面白くなかったことがあったことなど、つぎつぎと思い浮かぶでしょう。しかし、仕事が順調に運ばなかった原因は、というとこれもまたいろいろです。(中略)
その間接的原因の大海をすべて知り尽くすことは、普通の人間にはできないことはいうまでもありません。

『人はなぜ宗教を必要とするのか』阿満利麿=著 ちくま新書

現在の私は、仕事やプライベートでも、経済面でも、はたから見ればドン底状態だと思います。この一年以上の間、なぜこうなったのか、考えたくなくても考えてしまう毎日でした。

その中で思いました。
私は後悔をしているのだろうか。できればもう一度やり直せたら、と考えているのだろうか。
過去の失敗に納得している訳ではありません。今に満足している訳でもありません。ですが「後悔」とは違う感じがあることに気が付きました。
「後悔」が起こるならば、やり直したい思いも起こるかもしれません。やり直した場合を想像しなかったわけでもないのですが、やり直したらどういう道を歩んだのでしょうか。

例えば、私のある発言が、今回ドン底状態を作った一つの原因だったとしましょう。しかし、なぜその発言をしたのか。それは、その発言を誘発させた周りにも原因があるでしょうが、当然私自身にも原因はあります。
それは、私の考え方だったりします。言葉遣いの問題だったかもしれません。では、なぜそういう考え方をしたり、言葉遣いを私はしたのでしょう。
それは、私の生まれ育ちにさかのぼらなければいけないでしょう。私の生まれ育ちというと、私の父母やをはじめとする様々な人の存在があります。
その中でも身近だった母を思うと、ではなぜ母はそのように私に接して育ててきたのか、になります。そうなると、もう母の生まれ育ちにさかのぼり、さらに祖父母にさかのぼります。結局、原始人のころまで、さかのぼらなければいけないのでしょうか。
母親一人に関する原因を突き止めることすら不可能です。ましてや、その他の原因も含めたら想像を絶します。

そう考えると、この人生をやり直したとしても、自分では全く把握できない「縁」にからめとられている限り、自分が期待するような人生にはならないのではないか、結局また同じような結果になるのではないかと思えるのです。
今、このようなドン底状態の原因が結局何だったのか、私には分からないわけですから、後悔の起こりようもないのです。

しかし、それは一種の運命論なのでしょうか。「仕方がないからあきらめろ」ということなのでしょうか。
実は阿満先生は著書の中で、その点にも触れています。ですが、話が広がりすぎるので、ここでその詳細に触れるのは避けておきます。

ただ、今の私はこう思います。
あらゆる「縁」にからめとられた私でも、まったく自分の意志が効かないわけではありません。「縁」の中で翻弄されていく私でも「意志」はあります。
ですが自分の「意志」だけで自分の生き方が決められている訳でもない、つまり私にはとても知ることのできない「縁」の存在があるのも事実です。
そして「縁」を意識して生きることは、今の苦しさから私を救い上げて、少し楽な気持ちにしてくれている気がするのです。
それは「私のせいではない」「仕方がなかった」という一種の運命論とは違います。

その一つの理由は、「縁」の存在を知ることで、私の中から「後悔」が起きないからだと思います。
私は元来、負けん気が強く、後悔することは自分の負けを認めるように感じ、意地でも「後悔」ということを避けてきた気がします。でもそれは、自分をつらくするだけの意地でした。
ですが先ほど書いたように、「縁」を考えるようになってから、今は自然と後悔が起きないのです。「後悔」が起きないのは、自分では分からない「縁」の存在があり、やり直したいという考えから自然に離れさせてくれたからだと思います。

自分では分からない「縁」がある。その存在を知ったことで、私は随分救われている気がします。
そして、その私が知り尽くすことができない「縁」を全て知っているのは、人が及ばない智恵を持つ絶対的な存在、「仏」ということなのでしょうか。