これまでに阿満利麿先生の本は何冊か読んでいて、私が『歎異抄』を読むきっかけになったのも、阿満先生の本からでした。
その阿満先生が講演をされるというのをネットで知って、中野まで出かけました。
講演は、在家仏教協会主催で2019年11月9日に行われました。
私自身の忘備録として、講演の内容や私の考えたことを書き留めたいと思います。
ですが、私は講演を録音していたわけでもなく、メモもとりませんでした。今回は初めて聞く阿満先生の講演でもあり、聞くことに集中したかったため、メモもとらなかったのです。
ですから、これから書く内容には不正確なところや、私が聞き違えていたこともあるかと思います。大きく内容をはき違えている部分はないかと思いますが、私の勝手な解釈でまとめてしまっていることをご理解ください。
「小さな物語」と「大きな物語」
自分の「死」を考えた時や、大変な困難に遭遇した時、人は自分が納得できる考え方を求めます。その考え方を先生は「小さな物語」と「大きな物語」の二つに表現しました。
先生は「宗教」と言い方は好まないため「大きな物語」と表現しているそうです。先生の書かれた本で、「宗教」という呼ばれ方がいつ、どのように日本で生まれたか書かれていますが、それを踏まえてのことでしょう。
「小さな物語」で不安がなくなれば、それはそれでいいのでしょうが、そうではない、もっと根源的な不安を抱えている人には、常識ではありえないような「大きな物語」が必要になってくる、というお話でした。
その時に先生は明言されなかったのですが、おそらく「大きな物語」としての宗教、特に阿弥陀仏の誓願についての物語を指していたのだと思います。
仏道を歩む
理想と実社会の乖離を感じての苦悩、そして死への恐れ、これらの問題を解決するために、先生は色々学び、考えてこられたのだと感じました。
特に「死」に対しては、実家が寺であったため、子供のころから遺体を目にすることがあり、否応なしにも「死」を意識せざるを得なかったそうです。
その恐れを克服し、世の不条理にどう対応すればいいのでしょうか。
『無量寿経』は特に先生が大切にしてきた経典で、その中の三毒五悪段の話をしてくださいました。
人間が持っている悪の根源は、自分だけのことを考えていること、つまり自己中心性が問題になっている、そしてそれは、人間である以上克服できることではありません。
だから、理想的な世の中を作り、自己中心的視点を持たない自分になることは、「悲願」であり、叶うことのない願いです。
では、「悲願」がかなわぬ願いである以上、私たちには絶望しかないのでしょうか。
先生は旅人を例に出して話してくださいました。
昔の旅人は北極星を目印にして旅を続けたそうです。
悲願は北極星、それを目指し歩んでいる旅人は、仏道を歩んでいる。
人はどんなに自己中心的であろうとも根底では真理を求め、その自分が歩んでいる道が仏道だ。途中で死んでしまうかもしれないが、それは仏道という旅の途中の出来事に過ぎない。
先生は、そう考えられるようになってから「死」への恐れがなくなった、と話されていました。
長くなりそうなので、続きはページを改めたいと思います。