残された人生の生き方を求めて

平均寿命まではまだまだですが、50代後半に差し掛かって、残された時間で、本当に知りたかったこと、そしてその答えを探していくなかで、お念仏に出会いました。私の考えたことや、その手助けになった本や体験を書いていきたいと思います。

【講演】「迷いからの脱出ー仏教の“救い”とは?」講師=阿満利麿 ②

2019年11月9日、在家仏教協会の主催で、阿満利麿先生の講演会が中野で行われました。その時のことを書き留めた記事の続編です。
私は講演を録音したわけではなく、メモも取っていなかったため、不正確な個所が多いかと思います。全く見当違いなことは書いていないと思いますが、先生の言葉を忠実に再現したものではなく、あくまでも私の曖昧な記憶と、独自の解釈での記事だととらえてください。

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名号を唱えることの大切さ

法然はやはり凄い人だ、と先生はおっしゃいました。
それは、法然は名号を書いて人に渡すことはしなかった、というのです。
それに対して親鸞は、自筆の名号を人に渡している、それではいけない、やはり師匠である法然は凄い人だ、というのです。

なぜなら、阿弥陀仏は言葉で唱えることが重要だというのです。
書かれた名号や、仏像に対して手を合わせることは、阿弥陀仏を自分から離れた位置におくことになる、自分の外の存在としてとらえてしまいます。
そうではなく、自分が唱えることによって、自分と共に阿弥陀仏が存在することになるのです。

これは私にとって、とても印象に残る納得できるお話でした。 

行の大切さ

名号を唱えることの大切さに関連することで、これも私の印象に残った話です。

先生は来場者に対して、この中で実際に念仏されている人はどれだけいますか、と問いかけました。
口に出して念仏する人は、それほどいないのではないか、と先生はおっしゃいました。先生の周りでも、実際に念仏を唱えない人もいて、知り合いの方が「どうしても念仏が口からでてこないんだよ」と言ったそうです。先生はその方に「じゃあ、次、人間に生まれた時に唱えるんだね」と話したそうです。

 会場の人たちに先生は話しかけました。
皆さんの中には仏教の本をいろいろ読んでいる人もいることでしょうが、いくら本を読んでも、行を行わなければ何にもならない、禅はやる人も少しはいるけれど、念仏を唱える人はどれだけいるのでしょうか。

阿弥陀仏は、念仏を唱えると、その人のところに現れる存在であり、西の方のどこか具体的な場所にいるのではない、というのです。このことは阿満先生は書かれた本の中でも触れられていたことでした。

実は私も、試しに家で念仏を唱えたことはあります。
だけど、どう唱えればいいのか、よく分からず、そして誰も見ていないのに妙な照れを感じ、躊躇してしまう気持ちが起きました。
念仏が口から出てこないという先生の知り合いの方の感覚も、私にはわかる気がします。
私にはまだ、阿弥陀仏は遠い存在なのでしょうか。いえ、私がまだ阿弥陀仏を遠ざけているのかもしれません。

問答をすることの大切さ

講演の最後に先生は、本来ならば質疑応答もいれて3時間くらいあればよかった、とおっしゃいました。
ただ聞くよりも、議論をする、議論をすることによって記憶に残り自分のものになっていく、皆さんはこの会場を出たら今日聞いた内容は忘れてしまうでしょうね、と話されました。
そして、是非、皆さんの間でも、お互いの考えを話し合ってみてください、と最後に付け加えられました。
確かにそうです。ただ聞いているだけだとなかなか記憶に残りません。メモをとっておけばよかったな、と少し後悔しました。

そして今の時代、そういう内容の問答できる場がどこにあるのだろうと思い、それを考えると、少し寂しく思いました。法然親鸞の時代には、そういう場もあったのでしょうか。
だとしたら、様々な面で格段の進歩を遂げている現代ですが、一面では、とても貧しく寂しい時代になっている感もあります。 


 阿満先生の言葉で、「皆さん内容を忘れてしまうでしょう」とは、ちょっときつい言い方に取れるかもしれませんが、実際の阿満先生は少し関西弁が混じったユーモアのある話し方をされていました。
私が持っている本の写真で見る阿満先生は、厳しそうな表情をされていて、私は少し緊張して講演会に出かけたのですが、先生は、とても穏やかで優し気な方でした。