残された人生の生き方を求めて

平均寿命まではまだまだですが、50代後半に差し掛かって、残された時間で、本当に知りたかったこと、そしてその答えを探していくなかで、お念仏に出会いました。私の考えたことや、その手助けになった本や体験を書いていきたいと思います。

難思議を帰命せよ

前回の記事で私は、親鸞聖人の『和讃』にある「難思議を帰命せよ」という文言に触れました。それに関連して、今の私の考えをまとめてみたいと思います。


今私は、念仏を唱える生活を続けています。
このブログの表題、残された人生を考えたとき、なぜ私は「念仏」という選択をしたのでしょうか。

私がこれからの生き方を考えたとき、まず望んだことは、苦しみや辛さから逃れたい、とうことでした。簡単にいえば、心穏やかな日々を送りたい、そう願ったのです。
私が感じる苦しみや辛さには、健康や経済面などの現在と将来への不安や、孤独感があります。また、過去を思い返したときに喪失感を感じて辛い思いが襲ってきたりします。
他にも、漠然とした不安感や、やりきれない身の置き所がないような感覚が突然襲ってくることがあります。

それらの原因の多くは、私の身の回りに起きてきた、また現に起きている出来事に起因しているのでしょう。
しかし、その根本的な原因は、結局私にあるのだ、と今の私はとらえています。

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少し自分のことを書かせてもらいます。
私は以前、小さいながらも会社を経営していました。ですが、結局倒産させてしまいました。また同時期に離婚もし、二人の子供とも離れ、家族や財産の全てを失ったのです。様々な経緯があり、子供とはもう一生会えないでしょう。
そして、仕事や生まれ育ってきた家も無くしたわけですから、その当時の人間関係もほとんど無くしてしまいました。

それらの出来事に対して、全て私が悪い、全て私に原因があった、などとは、とても思えません。
ですが根本を辿っていけば、全てとは言わないまでも、やはり私に何らかの原因があるのです。
それは、私の欲深さであったり、虚栄心、競争心であったり、人の心を思う気持ちが薄かったり、自分の利益を追うあまり真偽の見極めができなかったことなどです。

では、私に原因があるこの苦しみや辛さから、どうすれば逃れることができるのでしょうか。
それは、私にはできないのだ、と思ったのです。
なぜなら、苦しみの原因を作っているのが、この私だからです。

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自分に問題があると分かったならば、自己改革に取り組めばいいではないか、と思うかもしれません。
誤っていたと思える自分の考え方や、ものごとへの対処の仕方を反省して、改めていけばいいのではないか。
しかし私は、それすらも不可能だと思ったのです。

なぜならば、これまで私は、私自身はもちろん周りの人たちにも、不幸にしよう、困らせよう、苦しめようなどと思って行動してきたのではないからです。
先に書いたように、確かに私に大きな原因がありました。今振り返ると気が付く点は多数あります。
ですが、振り返った今はそう感じても、その当時の私は、私の欲だけを実現させようとしたり、人を傷つけよう、迷惑をかけてもかまわない、などと考えて行動していたわけではないのです。私なりに、周りの人にとってプラスになるように、そして私にとってもプラスになるように考えて行動してきました。
だけど結局私は、周りを苦しめ、自分自身を苦しめる結果を引き起こしてきたのです。

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では、これから心を改め、考え方を転換させたところで、果たして苦しみから抜け出すことができるのでしょうか。
繰り返しますが、私はこれまでも、私自身でよく考えて、良かれと思って行動してきました。
そう思うと、この「私自身」が主体になっている限り、これまでと同じように、自分が原因となって、自らを苦しめる状況に追いやり、周りも苦しめ、さらに辛い思いを繰り返すだけではないかと思ったのです。

今私は、「私自身」が主体になっている限り、と書きました。
考えてみれば、これはおかしな表現です。「私自身」が主体になっているのは当たり前のことです。「私自身」が主体になっていなければ、それはすでに「私」ではありません。
私が私である限り「私自身」が主体になるのは当たり前です。つまり、私は決してこの苦しみ、辛さから逃れることはできないと思ったのです。

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そう思った時、私をとらえたのは、阿弥陀仏誓願の物語でした。
「物語」とは、私がその著作をよく読ませていただいている阿満利麿先生がよく使われている表現です。この「物語」という表現は、とてもしっくりきます。
法蔵菩薩が私を救うために願いを起こし、それを実現してくれた。その物語を、信じようと思ったのです。

最初私は、阿弥陀仏や極楽浄土という実際に存在を確認していないものを信じることには、大変な違和感がありました。
それはそうです。経典に書かれている阿弥陀仏の物語は、あまりにも常識を外れている単なる作り話に映ります。
その思いは、実は今もあるのです。こう書くと、この記事を読んでいる人は「え?信じているから念仏しているんでしょ?」「信じているんじゃないの?」と思うことでしょう。

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私が「信じている」ということは、信じきれない自分の判断を捨て去って、信じる道を選んだということです。
私は、自分にとって信じられないものを信じようと決めたのです。信じられないからこそ信じる、と言ってもいいかもしれません。
それは、私の判断はあてにならないのだ、ということが、私にははっきりしたからです。私の判断が、周りを苦しめ、私自身も苦しめてきたのだから、その私の判断は捨て去って、私を救ってくれるという阿弥陀仏の物語を信じようと思ったのです。

では、何でもかんでも信じればいいじゃなか、という疑問も起きます。なぜ阿弥陀仏誓願の物語なのでしょう。
そこに導いてくれて、今も「信じよう」と思う気持ちの支えになっているのが、『歎異抄』をはじめとする、親鸞聖人の残してくれた言葉でした。そして、著書やお話を通して、それを私に分かりやすく説いてくれた人たちでした。
これらのことについても、考えをまとめて書いてみたいのですが、長くなるので、またの機会に譲りたいと思います。

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親鸞聖人は『和讃』に「難思議を帰命せよ」と書かれています。
専門家の方々が説く、この言葉本来の解釈とは違うかもしれませんが、私なりに今はこの言葉をこのように受け止めています。