残された人生の生き方を求めて

平均寿命まではまだまだですが、50代後半に差し掛かって、残された時間で、本当に知りたかったこと、そしてその答えを探していくなかで、お念仏に出会いました。私の考えたことや、その手助けになった本や体験を書いていきたいと思います。

報道の自由

このブログでは、これまで政治的なことは書いてきませんでしたが、今回は何やら政治的な匂いのするタイトルをつけてみました。といっても政治的なことを書くわけではありません。

報道の自由とは、主に権力からの自由を意味するのではないでしょうか。
取材や情報発信することに制約を受けないこと、と私は受け止めています。そして、この制約とは主に国家等の権力側から行われることだと思います。

最近でも、香港で「リンゴ日報」という新聞が発行停止になり、様々な国から、香港での報道の自由に対して懸念が表明されています。
この場合、報道を制約しているのは、中国政府ということになるのでしょう。
もっとも、日本には報道の自由があるのか、実際に日本に住んでいる私には分からないと思います。中国の人たちも、その多くは、自分たちは自由な報道を抑制されているとは実感してないと思います。

ところで私が今回書きたいのは、こういう内容ではないのです。

日本で私が触れる報道に関して、思うことがあります。
それは、「その後」の報道が少ないということです。
「その後」といっても、あの人は今、みたいな話題も時々見かけますが、そういうことではありません。

例えば今(2021年7月現在)、私が気になっているのは、新型コロナで営業自粛をしている飲食店に対しての補償はどうなっているのか、ということです。
以前書いたように、私自身、経営していた会社を倒産させてしまった経験があるので、今、飲食店に関わる人たちの困っている状況や不安が分かる気がして、とても気になっているのです。自分自身の倒産直前の記憶と重なってしまうのです。

今年の初め頃までは、営業自粛に対する協力金の話題がたくさん報道されていたと思います。
コメンテーターといわれる人たちからも、自粛と補償はセットで、という意見も出されていました。東京都はお金があるけれど他府県は大変だ、ということも報道されていました。またその後、協力金により潤っている店舗があることも問題視されました。
ですが、今年の春の3回目の緊急事態宣言あたりからは、ほとんど協力金や補償の話題は聞かれなくなりました。
そしてネットで調べても、以前のように協力金の現状を知ることは、とても難しいです。それに対しての意見を述べる人もほとんど見受けられません。

殺人事件などのニュースでも、あの事件はどうなっているの、ということはよくあります。
なぜこんな事件が起きたのか、犯人の動機はなんだったのか、最初はセンセーショナルに取り上げられても、その後の報道がまったく途絶えてしまうことがよくあります。動機がずっと不明なのか、それとも単に、その後起きた他の事件に埋もれてしまったのか、分かりません。

また、企業がトラブルを起こして訴えられた報道があると、まずその企業にコメントを求めます。すると多くの場合、「訴状が届いていないのでコメントできない」という答えが返ってきます。
ではその後、訴状が届いてからのコメントは報道されているのでしょうか。それを目にしたことは、私はこれまで一度もないのです。

これらの理由の一つには、次から次へと起こる新しい出来事を報道しているので、過去のことなど扱えなくなるから、ということはあるでしょう。
ですが、それ以上に、新しい話題のほうがみんなが見てくれる、読んでくれるから、という報道する側の事情もあるのではないでしょうか。
そして、その根本にあるのは、やはり「お金」ではないか、と感じてしまうのです。

報道機関やジャーナリストたちも、「報道」によって収入を得なければいけないのは、当然です。
そうすると、どういう話題を載せれば新聞や週刊誌が売れるのかが、重要になるでしょう。
また今はネットの時代ですから、どの話題ならば閲覧数が増えるのか、たくさんクリックしてもらえるのか、常に考えていることでしょう。

それは結局私たちが何に興味を持っているのかに帰着することにもなります。
しかし一方で、一般の人たちが何に興味を持つのかは、メディア側が誘導していく側面もあると思います。
興味がなかったことも、連日報道されていけば興味をもつでしょう。先ほど書いた、新型コロナによる営業自粛に対する協力金の話題に関しては、特に感じます。

こう書くと、私がメディアの在り方を批判しているように思われるかもしれませんが、そうではないのです。
先ほど書いたように、報道に関わる人たちも生活があります。もちろん、報道に使命感を感じて仕事をしている人は沢山いるとは思いますが、使命感だけでは生活はできないのですから。それは私も含めて、どの仕事をしている人でも同じことです。報道に携わる人たちにだけ特別な意識を求めるなんておかしなことです。

そう考えると、やはり「お金」なのか、と感じてしまいます。
報道が、権力から自由を得るのは重要なことだと思います。
しかし、どれだけ「権力」から「報道の自由」を手に入れたとしても、「お金」からは自由になれないのでは、と感じてしまうのです。利益が得られる内容のものを優先して報道していく、これは「お金」に束縛されていることではないでしょうか。

そんなことはない、権力から自由になり、制約を受けることがなくなれば、あとは自由な報道があるのみだ、その自由の中で何を報道するのかは、それこそ報道機関の「自由」なのだから、という考えもある気はします。
ですが私は、「お金」からも自由にならなければ、本当の「報道の自由」を得たとは言えないのではないかと思うのです。

では、そのような「報道の自由」は、いつか得ることができるのでしょうか。
それは…やはり難しいと言わざるをえません。
度々、このブログの記事の中でも、お金の問題は取り上げてきました。お金の存在は、人が生活するには無視できないものですし、それ以上に人の欲望をダイレクトに刺激するものです。私も含めた多くの人たちにとって、そうではないでしょうか。
そして、そこから自由になることはとても難しく、そこから自由になれる存在こそが、仏様なのでしょう。
だからこそ、私は本当の自由が得られる世界、仏になれる国である浄土にあこがれるのです。