残された人生の生き方を求めて

平均寿命まではまだまだですが、50代後半に差し掛かって、残された時間で、本当に知りたかったこと、そしてその答えを探していくなかで、お念仏に出会いました。私の考えたことや、その手助けになった本や体験を書いていきたいと思います。

「不安」や「苦しみ」の上書き

近頃、昔の辛いことが思い返されます。

2,3年前の出来事が多いです。
あのころ、私は離婚問題が沸き上がり、仕事にも行き詰まっていました。
その当時を思い返すと、自分自身を責める気持ちも起こるのですが、同時に他の人に対しての怒りもよみがえってくるのです。

それらの苦しい体験を通してわかってきました。
直接的な原因は私であったり、他の人であったり、具体的な出来事にあったりするのですが、結局はすべて自分が招いてきたことだと思います。そして自分には理解しきれない「宿業」の存在を感じ、親鸞聖人の『歎異抄』の言葉が思い返されるのです。
ですが、これらのことを理解し納得できても、心の奥底では、まだ他人を恨み責める気持ちが消えないことに、愕然としてしまいます

2,3年ぐらいでは消えることはない思いなのでしょうか。いったいいつになれば、こういう心から自由になれるのでしょう。
人を恨んだり責めたりすることは悲しく苦しい心です。そういう気持ちを抱き続けているのは、私自身にとっても辛いことです。
以前、記事で紹介した本、『どうせ死ぬのになぜ生きるのか』(名越康文著 PHP新書)の中に、次のような一文があります。

怒りというのは「それ自体」が心にダメージを与える

他にも法話を聴いてきた中で、怒りの感情が自分自身に与える影響の大きさを知りました。

そもそも、過去の出来事を恨み、他の人を責めることによって、私自身の気持ちが楽になり、心が晴れるはずはないのです。自分がさらに苦しみ、心のダメージが広がることは間違いないでしょう。
このことも頭では十分理解できているはずです。なのに…。

そう考えているうちに、ふと思ったのです。
特に最近、過去の苦しかっことが思い返されるということは、単純に今現在、他に不安や心配事がないからなのでは? と。

様々な出来事があって、私は1年半ほど前に生まれ育った土地を離れ、ほとんど所持金もないまま新たな街に引っ越しました。もちろん仕事も失い、新しい仕事を探さねばなりませんでした。そして半年前には少し条件の良い新しい仕事をみつけることができて再度転職し、今(2021年12月)に至っています。

引っ越した当初や、職を探したり転職したばかりのころは、不安で頭はいっぱいでした。
でも幸いなことに、暮らしも落ち着いてきました。そして現在の仕事に就いて半年が過ぎましたが、職場の雰囲気も良く、大きなストレスもなく日々暮らしています。いまだに経済的には楽ではありませんが、毎日の暮らしに困ることはありません。
そして機会があるごとに、仏法聴聞をする日々を過ごしています。

つまり今の私には、不安を感じる要素がないとは言えませんが、とても少ないのです。だから昔の苦しかったことが思い出されてくるのではないでしょうか。今が辛く、苦しければ、過去の苦しかったことなど思い出す余裕もないはずです。
昔のことが思い出されて、苦しくなったり、人を恨む気持ちがよみがえってくるのは決して喜ばしいことではありませんが、それもこれも、今の不安や苦しみが少ないことの証拠という気がします。

そう思うと、なんて今の私は恵まれているのでしょう。
さんざん悪行を積み重ね、人にも迷惑をかけ、なおかつ今でも他人に恨みを感じたりしているのに、こんなに恵まれた境遇に今はいるのです。

そして私は、常に何かしらの不安や苦しみを抱えていなければいけない存在なのかな、と思うのです。今に不安や苦しみがなければないで、昔の辛いことが思い出されて、それで苦しい気持ちになるわけですから。
きっと、今の仕事がとても辛かったり、日々の暮らしに困るようならば、昔のことなど思い返さないでしょう。

すると、私にとって「不安」や「苦しみ」は常に存在し続けるものなのでしょうか。
新しい「不安」「苦しみ」に上書きされれば、昔の「不安」「苦しみ」は消えていく。新しい「不安」「苦しみ」が薄まれば、今度は昔の「不安」「苦しみ」がよみがえってくる。

いったい私の心は、どうなっているのでしょう。
まるで新しい「不安」「苦しみ」に上書きされること、つまり新たな「不安」「苦しみ」が訪れることが、私にとって必要なみたいです。
いいえ、そんなことはない、私は「安心」が得たいのです。
今はまだ、そこへ向かう道の途中なのでしょうか。
本当の「安心」は得ることができるのでしょうか。

今はただ、念仏するのみです。念仏することが、本当の「安心」が得られる新しい世界へ私を連れて行ってくれる気がします。
きっと、私にとっては他に方法はないと思えるのです。