先日、京都の法然院で、阿満利麿先生の講演会がありました。
阿満先生の書かれた『選択本願念仏集 法然の教え』(阿満利麿=訳・解説 角川ソフィア文庫)を題材にした内容です。
この2年ほど、新型コロナの影響で、阿満先生の講演も無くなり、久しぶりにお話を聞くことができました。
いつのもように、聞くことに集中したいので、細かなメモはとっていません。ですから、これから書く内容を阿満先生が見たら「私はそう言っていない」「そういう意味ではない」いう個所もあるかもしれません。
なので、あくまでも私の心に残った内容を、私というフィルターを通して記録したものとして読んでいただきたいです。
講演は『選択本願念仏集』の解説だけではなく、念仏の教え全般にわたりました。
ただ、一向に念仏せよ
歳をとってきて、若いころにできたことができなくなることもあるけれど、よかったと思えるところもある。
それは、「ただ、一向に念仏せよ」ということが実感できるようになった、ということ。
なにか立派なことをしている気持ちや、特別な思いを持ってするのではなく、ただ念仏をする。
称名念仏によって、すでに救われている。阿弥陀仏の救いは完成しているのだ。
わからない因果を知ろうとすること
すべての因果、因縁を知っているのは仏のみ。
だけどそれを知ろうとしてしまうのが人間であり、知ることのできないことを知ろうとすると、どうしても無理が生じて不安になってしまう。
人には仏の知恵はないのだから。
人情について
人に「気持ち」がある証拠だ。だけど因果が分からないから、完全な慈悲の実行はできないのが人間だ。
念仏を行うようになって
猪突猛進の人間だった私が、念仏の功徳によって「ちょっと待て」と立ち止まる力が生まれた。
念仏の利益
念仏は現生利益を求めるものではないというが、念仏には明らかな利益がある。
それは、この言葉に現わされている。
「罪悪も業報を感ずることあたはず」(『歎異抄』第七章)
私たちに、辛いこと、大変な不幸が起こって、心が大きく動揺することがあるかもしれない。
私たちが過去に行ってきたことによって、何かしらの報いを受ける。そしてそれは避けることはできないし、そういう因果の法則を仏教は否定するものではない。
だけど、その私たちを襲ってきた出来事(過去の報い)によって、動揺はしたとしても、心がズタズタになることはない。
それが念仏の功徳である。
摂取不捨
摂取不捨とは、「今、救われている」という意味である。
法蔵菩薩はすべての人を救う願をたてて、それが成就して阿弥陀仏になられた。だから、我々はすでに救われているのに、それに気が付いていない。
自分の立場で「摂取不捨」ということを推し量っているから、自分が救われていると感じられないのだ。
一度、仏の立場で考えてみたらどうだろう。阿弥陀仏からすれば、すべての人はもう救われているのだ。
それに気が付いていないから、念仏が口からでてこないのだ。
日本の仏教界について
あるたとえで、日本の仏教は2階建てだという。
2階には僧侶や学者をはじめとする、仏教を学んだ人たちがいて、1階に一般の人達がいる。
そして、1階と2階には階段がない。
私たちは生きていく根拠が欲しいのだ。これさえあれば生きていける、そういうものが欲しいのだ。
仏教にはそれがあるはずなのに、1階と2階がつながっていない。
講演の後に参加者を交えての質疑応答がありました。その中で私が印象に残ったやりとりを、私の解釈や感想を交えて書き留めておきます。
ニヒリズムに陥りそうな自分を感じ、仏教の教えを聞いているという参加者がいました。その人に対して阿満先生は、ニヒリズムは結局「エゴイズム」ですよ、と返されました。
阿満先生はそれ以上の言葉を続けませんでしたが、その言葉を聞いて私は、「ニヒリズム」に陥るのは、自己中心的な見方、これは「自己中」という狭い意味ではなく、「私」という視点から物事を見ていること、つまり「煩悩」から起こっているからではないか、と思いました。
「ニヒリズム」も「煩悩」のあらわれなんだ、と阿満先生の言葉を私は受け止めました。
また、ある参加者は、自分の伴侶は浄土の教えに理解を示してくれない、これでは一緒にお浄土へ行くことができない、どうしたら相手に理解してもらえるのか、と質問しました。
それに対して阿満先生は、まず阿弥陀仏から話を始めない方がいいと言われました。「自分はアホだ」という認識からスタートしてもらう方がいいでしょう、と答えられました。
その他、ここには書ききれない様々な質疑応答がありましたが、最後に阿満先生は言われました。
…本当は私(阿満先生)のようなゲストは脇役で、このように皆さん(参加者)がどういう思いを念仏に対して感じて、暮らしているのかを話せることが大切で、皆さん一人一人がそのような場を持つことができたら素晴らしいことです…
阿満先生のように大学で教鞭もとられていた、いわゆる「学者」(この言い方は阿満先生は嫌がるかもしれませんが)の先生が、このような発言をされることに心を動かされました。
私も、そう思います。
まさに私は、そういう場所を求めて、この日の講演会に参加をしたのですから。