残された人生の生き方を求めて

平均寿命まではまだまだですが、50代後半に差し掛かって、残された時間で、本当に知りたかったこと、そしてその答えを探していくなかで、お念仏に出会いました。私の考えたことや、その手助けになった本や体験を書いていきたいと思います。

慣れていくこと

近頃はこのブログで、私の辛かった経歴に触れるようになりました。離婚であったり、それに伴う子供たちとの別れであったり、倒産や破産だったり…。
ブログを始めたころはほとんど書かなかったのです。それらを書くようになってきたのは、今はその辛さから抜け出しつつあるからかな、と思います。

一方で、そうなってきた自分に、ちょっとした不安もおぼえるのです。
今の生活は、かつての辛い出来事が続いた日々に比べると、平和そのものです。
経済的には厳しいのは相変わらずだし、家族もいない一人の生活を続けています。それでも、度々法話の席に参加できたり、仕事でも大きなストレスもない毎日は、かつての日々に比べると平和です。
この穏やかな日々こそ、私が求めていたものなのでしょう。
ところが、近頃、この生活にも慣れてきてしまった感じはするのです。

プライベートや仕事のトラブルから抜け出して、全く違う土地に越してきたのが約1年半前、新しい仕事について、その当初は不安はあれど、安堵感ともいえる喜びの心もありました。
でも今は、その時ほどの喜びは感じられない自分に気が付くのです。
先ほど書いたように、平和な毎日に感謝はしているのですが、その感謝も、はじめのころのような、それこそ地獄から抜け出したような気持ちではないのです。
今に感謝しなきゃ、と思う気持ちが働いて、感謝している、そんな感じでしょうか。

慣れちゃいけない、今の平和な日々に慣れちゃいけない、過去の地獄を忘れちゃいけない、と思うことがあります。過去の地獄を忘れたい気持ちもあるはずなのに、おかしなものですが。

人は(というより自分は、ですかね)慣れてしまう生き物なのでしょうか。
幸せな暮らしにもすぐに慣れて、不満を持つようになる。本当にお金がないときは、千円でもあれば、と思っていたのに、生活が落ち着いたら、あと一万円あれば、と考えてしまう。仕方がないことなのでしょうか。

ですが、「慣れる」ということにも良い面があるのではないか、とも思うのです。

それは、自分にとってつらい状況にも、慣れることができて、そのつらい気持ちを忘れていくことができることです。それは、自分にとってはよいことでしょう。
自分にとって良いことは忘れたくないですし、慣れていきたくないです。ですが、仮に、過去を忘れて今の状態に慣れていく能力がなかったとしたらどうでしょう。
自分にとって悪いことにも慣れることができず、忘れることもできないとしたら、それは辛いことではないでしょうか。

例えばいい人との出会いがあり、「ああ、この人に会えてよかった」と思っても、その喜びや感謝の気持ちは薄れていってしまいます。確かにそれは喜ばしいことではありません。
ですが、例えば職場で自分にとって嫌な人と出会って、「この人といるのは嫌だな」と思っても、徐々に慣れていく。そして、苦手な人だけど、まあ何とかやっていけるようになる、それも「慣れ」ということではないでしょうか。

「慣れ」というものも、私が生活していく上では必要なものなのかもしれません。
もちろん、感謝の気持ちを忘れるべきではないのでしょうが、それが薄らいでいってしまうことも、仕方がないことであり、過去が薄らいで今に慣れていくからこそ、悪いことに遭遇しても何とかやっていける気がします。

しかし、こう考えると、要は自分にとって都合の良いことは忘れずに慣れてしまいたくない、都合の悪いことは忘れて慣れてしまいたい、という自己中心的な自分に気が付かされます。
それこそが仏教でいう、あくまでも自己中心の捉え方しかできない煩悩にとらわれた身ということなのでしょう。そして、そこから自分の力で抜け出ることは、とても不可能だ、と思い知らされます。
それを思うと、阿弥陀仏の本願が、いかに私にとって意味のあることが実感できるのです。