残された人生の生き方を求めて

平均寿命まではまだまだですが、50代後半に差し掛かって、残された時間で、本当に知りたかったこと、そしてその答えを探していくなかで、お念仏に出会いました。私の考えたことや、その手助けになった本や体験を書いていきたいと思います。

自分の正しさ~浄土真宗大谷派「不戦決議」に思う~

浄土の教えに関する法話を聞く中で、浄土真宗大谷派の「不戦決議」を知りました。
この「不戦決議」は1975年、戦後50年にあたり浄土真宗大谷派の宗会で採択されたものです。内容は文字通り、先の大戦に際して宗門が犯した罪を懺悔して、不戦を誓うものです。(決議文は検索していただけたらすぐに見つかると思いますので、興味がある方はご一読ください)

大谷派では過去への懺悔をたびたび表明しています。このような大谷派の、過去の過ちに対しての率直な懺悔に、私は共感を覚えます。
しかし、共感を覚えるがゆえに、疑問や不安も感じるのです。
それは「また同じことを繰り返さないだろうか」ということです。

なぜなら、過去の戦争時も、きっと大谷派の関係者を含め、この日本の多くの人たちは、日本とアジア、ひいては世界の平和と繁栄を願っていたのではないか、と思うのです。
朝鮮や中国などアジアの人たちを苦しめてやろう、街を破壊して人々を殺してやろう、そして日本国民も戦争に巻き込んで苦しめようなどと考えた人は、いなかったのではないでしょうか。
方法は人それぞれだったと思いますが、みな、平和でありたい、自分もみんなも幸せになりたい、という思いは持っていたはずです。

私がこう感じるのは、私自身のことを振り返って思うことがあるからです。
大谷派に対して批判めいたことを書いてしまいましたが、私自身のことを書いてみたいと思います。

以前の記事で私は、過去の私は周りの人を不幸にしたり、苦しめたりしようとしてきたわけではない、それなのに振り返ると、結果として誤った言動をして、周りと私自身を不幸にしてきた、という意味のことを書きました。
では今の私は、本当に正しいことをしているのだろうか、周りの人、そして自分自身も、傷つけたり苦しめたりしていないだろうか。
その問いかけに対して、「大丈夫!」と胸を張って答えられないのです。
なぜなら、繰り返しますが、過去失敗を重ねてきた自分も、その時々「よかれ」と思って行動してきたからです。

過去の私が「よかれ」と思ってやっていたことも、振り返ってみると、間違いだらけでした。
では、今の自分はどうなのか。もちろん「間違ったことをしている」「いけないことをしている」「他人を苦しめようとしている」などと考えて行動していません。ですが、そういう意味では、過去の私も全く同じだったのです。

大谷派の「不戦決議」を読んで感じることも同じです。
「戦争を許さない、豊かで平和な国際社会の建設」と決議には書かれています。
しかし、先の大戦時もそうだったのではないでしょうか。
もちろん実際に戦争を行っていたわけですが、「平和のための戦い」という大義名分も考えられるわけです。「戦争を無くすための戦い」も考えられるのではないでしょうか。

では、絶対に「戦争」を行わない、という方法はあるのでしょうか。
どんな理由であっても戦わない、というのならば、自衛のための戦いはどうなのでしょう。今(2022年6月)まさに、ロシアがウクライナに侵攻して戦争状態になっています。戦争をしてはいけないから、ウクライナはされるがままにするべきだ、というのでしょうか。
しかし「自国を守るため」という理由で引き起こされた戦争は、過去多数あります。現に今のロシアは、それに近い主張をしているわけです。

どうすればいいのか、私にはまだ分かりません。
今の世界情勢のことも、「自衛」をどう考えていけばいいのかも、分からないのです。
大谷派の「不戦決議」に関しても、不安を感じることは感じるのですが、ではどういう決議文ならばいいのか分からないのです。
言いたいだけ言って、じゃあどうすればいいのか分からないなんて、申し訳ないと思います。これからもよく考えて、何かしらの答えが見えてきたら、また書きたいと思います。

それでも、国家や教団に対してではなく、私個人に対しては、言えることはあります。
「自分は間違っているかもしれない」「自分には本当に正しいことは分からない」という視点は、持っていきたいと思うのです。
それが私にできる、唯一の方法です。

歎異抄』の結文に書かれている、親鸞聖人が述べられた言葉が思い返されます。

如来の御こゝろによしとおぼしめすほどに、しりとをしたらばこそ、よきをしりたるにてもあらめ、如来のあしとおぼしめすほどに、しりとをしたらばこそ、あしさをしりたるにてもあらめど、煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもてそらごと、たわごと、まことあることなきに、たゞ念仏のみぞまことにておはします

念仏のみぞまこと…。
自分の「はからい」を越えた存在のみが、私を正しい方向に導いてくれると思うのです。