残された人生の生き方を求めて

平均寿命まではまだまだですが、50代後半に差し掛かって、残された時間で、本当に知りたかったこと、そしてその答えを探していくなかで、お念仏に出会いました。私の考えたことや、その手助けになった本や体験を書いていきたいと思います。

阿満利麿先生の言葉

仏教の教えに触れていくと、善知識という存在がでてきます。
善知識とは、仏道に導いてくれる人といえばいいでしょうか。いわゆる「教祖」とは違い、仏道を歩む先輩のようなイメージだと思います。

私は今、念仏の生活を過ごしているのですが、私にとっての善知識は誰でしょう。
私は、家族や友人など周りの人から浄土の教えや念仏の意味を教えてもらったわけではありません。教団関係者から勧誘されたわけでもありません。自分で本を読んだり講演や法話を聞き、念仏の生活に入っていったのです。

そういう私の善知識は誰か、と聞かれれば、その一人は間違いなく、阿満利麿先生だと思います。
とは言っても当然、阿満先生と面識があるわけではありません。私は、先生の本を読み、講演を聞いてきただけです。しかし、私をお念仏に導いてくれた人であることは間違いないでしょう。
その阿満先生のお話し中で、印象に残っている、そして私にとって大切な言葉を二つ、書き残しておきたいと思います。

 *   *   *

その一つは、阿満先生の講演を聞き始めたばかりのころです。講演の冒頭で、阿満先生は参加者に、こう話しかけました。

「皆さん、ここにいらしているのは、何か事情があってのことですよね」

その当時の私は、数ヶ月前に離婚をして子供と離別し、事業も上手くいかず破産するかの瀬戸際でした(結局、破産しましたが)。そんな私の現状を、ずばり指摘された感じでした。

私は、若いころから特に何かの宗教に関わったことはありませんでした。二十代のころには禅に興味があったり、十年以上前にはすでに阿満先生の本などから、『歎異抄』には触れてきました。
ですが、私にとって宗教は知識の対象であり、その内容を信じることは出来ず、それに入りこむのは特殊な人達だと考えていました。

そんな私が、プライベートや仕事上の困難につきあたった時、宗教に、自分の救いとこれからの生きる道を求めようとするのは、心の奥底では抵抗があったのです。
そんな時に、阿満先生の講演に足を運びました。そしてそこで、ストレートに、あなたは苦しいこと、辛いことがあったからここにきたのですね、という意味の事を言われたのです。

その時の私は、驚きや困惑でドキッとしました。
ですが同時に気持ちが楽になって、嬉しいような心持ちになったのです。

おそらく、その時の私は阿満先生の言葉を受けて、「そうなんだ、私は苦しいんだ、辛いんだ。そしてそれを乗り越えるのは、自分の力ではどうにもならないんだ」そう、素直に認めることができたのだと思います。
宗教に対しての抵抗、例えば、宗教なんかに逃げないで自分がもっとしっかりしなければ、自分は宗教に頼らなくても大丈夫だ、宗教なんて信じたら変なヤツと思われるかも、などの思いから抜け出た瞬間だったのかもしれません。
その時の講演の内容は過去の記事に書いたと思いますが、今ではほとんど忘れています。ですが、この阿満先生の言葉だけは、今でも覚えているのです。

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二つ目は、念仏の生活に入って二年以上たったころのことです。

その日は講演の後、質疑応答がありました。そこで私は、阿満先生の著書で気になっていたことを聞いたのです。
その本は『無宗教からの『歎異抄』解読』(ちくま新書)という本です。
この本は、宗教の世界に縁がなかった人を対象にした本ですが、その内容は分かりやすく、宗教とは何か、浄土の教えとはどういうものか、的確に示されています。ですから今でも、たびたびこの本を読み返していて、もうボロボロです。

この本の中で、私は次の箇所が心に引っ掛かっていました。
これを読んで私は、「本当なのか?!」と思ったのです。

そしてひとたび阿弥陀仏への本願に帰すれば、「宿業」、「業縁」の自覚は、さらに思いもかけない世界を開く。それは、他者への深い関心が呼び覚まされてくることである。「宿業」や「業縁」の自覚は、他者とのつながりの自覚でもある。
(中略)そのつながりの認識は、他者への無関心を、関心へと転換させる。これが実は慈悲の実践のはじまり、になる。

私は自分の苦しさや辛さからの救いと、これからの生き方を『歎異抄』をはじめとする浄土の教えに求めてきました。そこには他者への関心や思いはありませんでした。そうして念仏をとなえる生活を二年以上過ごしてきても、一向に他者への思いは起きないのです。

いえ、頭では阿満先生の言うことは分かります。
宿業ということを考えれば、自分を他者との関係から切り離して考えることはできません。関係が感じられれば、他者への関心が呼び起こされ、それが慈悲の実践へと繋がっていく。阿満先生の言うことは、とてもよく分かります。

ですが、私には未だ他者への関心が起きず、関心事は徹頭徹尾、私のことなのです。
こんな私の念仏は何かが違っているのか、根本的に勘違いしているのか、実は理解できていないのか、そして、こんな私でも、いつかは他者への関心が起きるのだろうか不安だったのです。その不安な気持ちを話し、阿満先生の考えを聞かせて欲しいと言いました。

阿満先生は、自分一人だけが救われることは不可能だということを例え話を用いて話してくれました。そしてその後、私にとって驚くようなことを言いました。

「あなたがそう思い込んでいるだけですよ」

私はこの言葉を聞いた時、思わず泣きそうになりました。
自分では気が付いていなくても、他者への関心も、慈悲の実践への思いも、私の中で芽生えているのだ、阿満先生は、そう言ったのです。
確かに、「私は他者に無関心だ」と思うこと自体、既に他者への関心があることかもしれません。浄土の教えに触れて、念仏をとなえるようになって、私は少しずつでも変わってきたのかもしれません。

いえ、だけどやはり、今でも私にとって一番の関心事は自分のこと、未だに他者への思いがあるとは思えません。阿満先生のことは信頼していますが、その先生に言われたからと言って、「そうか、私も慈悲の実践へと歩んでいるんだ」などと思えません。
ですが、この阿満先生の言葉は、私が向かっている方向は間違ってはいない、そのまま進んで行きなさい、と勇気づけてくれているかのように感じたのです。