残された人生の生き方を求めて

平均寿命まではまだまだですが、50代後半に差し掛かって、残された時間で、本当に知りたかったこと、そしてその答えを探していくなかで、お念仏に出会いました。私の考えたことや、その手助けになった本や体験を書いていきたいと思います。

阿弥陀仏の物語を信じること

本願を信じ念仏をまうさば仏になる

歎異抄』の第十二章に書かれている言葉です。
学問をしなければ浄土に生まれることは難しい、という説に対して、著者唯円は、阿弥陀仏の本願を信じて念仏すれば浄土に生まれる、ということを知る以外に、何の学問が必要なのか、と訴えます。

本願を信じる…。
では今、念仏を唱える暮らしをしているこの私は、阿弥陀仏の本願を、つまり阿弥陀仏の物語を信じているのでしょうか。
「物語」という表現は、私が勝手に自分の善知識とあおぐ阿満利麿先生が、よく使う表現です。
とても、しっくりくる表現ですが、一方で「物語」という表現には、事実としては信じていないニュアンスも含まれている気がします。

確かに、『大無量寿経』をはじめとする浄土三部経に書かれれていることは、現実にはあり得ない、一種の「おとぎ話」に思えます。
国王であったある人物が、一切のものを救いたいと誓い、法蔵菩薩となり、地球が生まれて現在に至るまでの時間より遥かに長い時間の修行の果てに、願いが成就して阿弥陀仏となった。阿弥陀仏となった法蔵は、寿命も限りなく、身体もすでに「人間」ではなくなっていた…。
とても事実とは思えないし、これを本当にあった話だと信じるのは難しいことです。

*   *   *

私が念仏の暮らしに入った最初のきっかけは、『歎異抄』でした。
そこに書かれていた親鸞聖人の言葉は、とても論理的であり、「なるほど」と思える内容でした。
そしてそれは、私がもっていた宗教や宗教家のイメージを大きく変えるものでした。

ですが、その根本であるはずの阿弥陀仏の誕生や誓いの話は、理窟から言って、理解して信じることはできないと感じたのです。
かと言って、「こんなもの、作り話だ」と捨て去ることができない何かを感じたのです。

そして今に至り、念仏の日々を過ごしている私は、阿弥陀仏の物語を信じているのでしょうか。
「信じていないのか」という問いには、明らかに「No」と言えます。
では「信じているのか」と聞かれると、答えに窮します。阿弥陀仏の物語が事実としてあったとは思えないからです。
信じるのか、信じないのか、その問いに強いて答えれば、「自分の救いはそこにある、いや、そこにしかない」という言い方が、今の私が感じていることに一番近いと思うのです。

阿弥陀仏の物語は、私には理解できない、事実とは受け止められない。
でも、だから、自分の救いがきっとそこにあるのです。
阿弥陀仏の物語に出会うまで私の生きる指針となってきた、自分の知識、経験、考え、そして理性までもってしても、阿弥陀仏の物語は受け止めきれない。そういう「物語」だからこそ、私をあるべき生き方に導いてくれる、と思うのです。

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法然上人の言葉にあります。

聖意測りがたし。たやすく解することあたはず。

阿弥陀仏がなぜこのような誓いをたてたか、理解はできない。法然上人は、そのように言っています。
私が思うに、「私には分からない」、そのことこそが、大切なことなのだと思います。
なぜ「私には分からない」ことが大切なのか。
普通に考えれば、自分で分からなければダメだし、分からなければ、それは自分にとって何の役にたたない、と思えます。

ですが、自分が理解できることで自分を救えるのでしょうか。
自分が理解できることで自分を救うのは、自分で自分を導くことに他なりません。
「自分」が苦しく救いを求めているとき、辛くて進むべき道を模索しているとき、その苦しみもがいている「自分」が「自分」を導くことなどできるとは思えません。
事実、私はできませんでした。

そういう時は、本を読んだり、人からアドバイスをもらえばいいのではないか、と思うかもしれません。
ですが、本や人の話の内容を「自分」が理解して、それを指針にしている限り、それはあくまでも「自分」が「自分」を導いていることになります。
日常生活に関する細かなトラブルには対処できるかもしれません。ですが、根本的な苦しみや辛さから、自分を救い導くことなどできないでしょう。

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私はあるとき、私の理解を越える阿弥陀仏の物語に出会うことができました。

その物語に語られているように、念仏をとなえることだけが、自分を救う道であり、進むべき道に導いてくれる、そう感じています。