残された人生の生き方を求めて

平均寿命まではまだまだですが、50代後半に差し掛かって、残された時間で、本当に知りたかったこと、そしてその答えを探していくなかで、お念仏に出会いました。私の考えたことや、その手助けになった本や体験を書いていきたいと思います。

2022年報恩講を終えて ~「寂しさ」と共に生きる~

今年2022年の報恩講も終わりました。

報恩講とは親鸞聖人の命日である11月28日前後に行われる法要です。
私が今回参拝した京都の東本願寺(真宗大谷派)や佛光寺では、11月21日から28日まで連日法要や法話が行われます。ちなみに報恩講の期日は宗派や寺院によって違い、京都の西本願寺(本願寺派)では旧暦の11月28日にあたる1月に行われます。
こんな解説めいたことを書いてますが、私は5年ほど前までは報恩講のことは全く知らなかったのです。

今回、東本願寺報恩講に参拝するのは三年目、佛光寺報恩講は初めてでした。
初めて報恩講に参拝した時から感じたのは、報恩講が終わった後の、なんとも言えない寂しさでした。
その寂しさの正体は何なのでしょうか。
これは、いわゆる「祭りの後の寂しさ」なのでしょうか。

コロナの影響もあるのか、「祭り」というほど沢山の参拝者で込み合っていたわけではありません。
それでも境内には案内のテントがたてられ、法要時、東本願寺前には団体参拝のバスが何台も停まり、参拝者も普段に比べると圧倒的に多く、境内はいつもと違う雰囲気に包まれました。
きっと、それが終わってしまった寂しさがあるのでしょう。

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その寂しさの根本を考えると、私が抱えている「孤独」に行き着きます。

全国から集まる参拝者たち、お堂の中で手を合わせる人々、高齢者のグループもいれば、幼い子供を連れた家族もいます。一人で参拝する人も多いです。中には、地方から京都観光を兼ねて参拝に来た人たちもいるようです。そういう人たちにとっては、もしかしたら報恩講よりも京都巡りの方が実は主目的かもしれません。
ですが、そうであったにしても、その一人ひとりに、念仏に出会えたストーリーがあり、これまでの人生があり、その上での今日の参拝なのです。
そういう人たちと一緒に堂内に座り念仏をして、法話に耳を傾けていると、私は一人ではない、という気持ちになります。
人それぞれ念仏との縁は違えども、共に念仏を唱えている仲間であることに変わりはない、そう思うと、私の孤独感が少しだけ和らぐのです。

ですが、この「孤独感が和らぐ」ことは、おそらく幻想のようなものだと思います。
私自身が抱えていて、これからも向かい合わなければいけない「孤独」は、人間である限り決してなくならないはずです。
それでも、幻のような一時であっても、「私は一人じゃない」と感じられる時は、やはり、かけがえのない時間なのです。「人間は孤独な存在だ」と言われ、それが揺るぎようのない事実だとしても、やはり私は人間であり「凡夫」なのでしょう、幻を求める心が消えず、時にはそれを支えにしてしまうのです。

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私の部屋には真宗教団連合が作製している法語カレンダーが掛かっています。その11月には「たとえ一人になろうとも仏はあなたと共にある」という雪山隆弘氏の句が書かれています。
また、実際に親鸞聖人が述べた言葉ではないらしいのですが、「一人居て喜ばは二人と思うべし、二人居て喜ばは三人と思うべし、その一人は親鸞なり。」という言葉が伝えられています。
阿弥陀様が、親鸞聖人がいてくれる、と思うことで、心が救われたことがこれまで何度かありました。

ですが、ふとした時に、やはり私は孤独感におそわれます。現実に阿弥陀様や親鸞聖人が隣に来て、声をかけてくれるわけではないからです。
これはひとえに私が凡夫なるが故なのでしょう。
人間は孤独な存在だという事実を、とても受け入れきれないのです。阿弥陀様がいてくれれば十分なはずなのに、それでは心がおさまらないのです。

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佛光寺では27日の夜から28日の未明にかけて通夜差定が行われ、私も参加してきました。

通夜差定では、27日の20時から6名の布教使が法話を行います。
途中、甘酒やミカンが配られたり、佛光寺学生寮の学生グループが、ちょっとコミカルだけど、仏教の教えを考えさせてくれる劇を上演してくれました。全てが終了した時には、1時を過ぎていました。(1名の布教使の方が急遽来られなくなったので、予定より早く終わったそうです)
夜が更けてくると堂内は冷え込んできて、参加者は各々、支給された毛布を体に巻いたり、畳の上に敷いて座ったりして、法話に聞き入っていました。

真宗教団の一年は報恩講に始まり、報恩講に終わる、と度々聞かされてきました。今年はこの通夜差定に参加して、その感覚を肌で感じとることができました。
同じ念仏を唱える人たちと共に法話を聞き、夜を明かす。そして、夜明けから私は来年の報恩講に向かってスタートするのです。

佛光寺東本願寺報恩講に集まった人たちとは、私は何の面識もありません。特に会話を交わしたわけでもありませんでした。だけど、また来年ここで集えたら、という想いが込み上げてきました。

このようにして今年の報恩講を終えた今、私はたまらない寂しさにおそわれるのです。

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今年の報恩講では、東本願寺で酒井義一先生の法話を聞くことができました。酒井先生の法話YouTubeで聞いて、以前記事にさせていただきました。今回初めて直接、酒井先生のお話を聞くことができました。

thinking-about.hatenablog.com

酒井先生は、苦しみや悩みをかかえていた若い頃、教えを受けていた先生から、酒井先生が持っていた暗さを指摘され、その暗さは正しい生き方をしていないことからくるのだろう、と言われたそうです。そして次の言葉が忘れられない記憶として残ったそうです。

「その暗さを大切にな」

今回の報恩講を終えて、「孤独」からくる寂しさを感じている今、つい数日前にその報恩講で聞いたばかりの酒井先生の話が思い返されました。
人間の「孤独」を受け入れきれずに、寂しさから幻を求めてしまう私です。その幻を追う姿は、決して正しいあるべき生き方ではないのかもしれません。
ですが、その寂しさは凡夫である私の証です。阿弥陀仏の救いの目当てである凡夫の証なのです。
私は、この「孤独」と、そこからくる「寂しさ」を、この先の人生において大切にしていきたいと思います。

南無阿弥陀仏