残された人生の生き方を求めて

平均寿命まではまだまだですが、50代後半に差し掛かって、残された時間で、本当に知りたかったこと、そしてその答えを探していくなかで、お念仏に出会いました。私の考えたことや、その手助けになった本や体験を書いていきたいと思います。

『『歎異抄』講義』阿満利麿

これまで度々記事に取り上げさせていただいている、阿満利麿先生の本、『『歎異抄』講義』(ちくま学芸文庫)について書いてみます。
この本を手にしたのは、もう半年近く前です。すでに何度か読み返していて、読むたびに私に沢山の学びや気づきを与えてくれます。

内容は、公開講座「『歎異抄』を読む」をまとめたものになっています。
阿満先生の講義を原稿に起こしたもので、参加者との質疑応答や感想なども収められています。
ですから、『歎異抄』について、また浄土の教えについて、順序立てて書かれている「解説書」という感じではありません。
もちろん内容は『歎異抄』の序文から順を追って進められるのですが、いわゆる通常の『歎異抄』の解説本とは趣が異なります。

阿満先生は『歎異抄』に関する本を何冊か出版されています。その中で、阿満先生の訳・解説による『歎異抄』(ちくま学芸文庫)を私が読んだのは、もう何年も前のことで、その中で気になっていた箇所がありました。
阿満先生は、現代人の本願念仏に関しての無関心について触れ、それついてこのような言葉で結んでいます。

では現代人のための本願念仏への通路はどこにあるというのか。それに答えることは本書の役割を超えているので別の機会を待ちたいが、少なくとも、人間存在の「危うさ」と現代社会の根源的差別が重要な指針だと思っている。

この「別の機会」というのを私は待ち望んでいました。
「人間存在の「危うさ」と現代社会の根源的差別」については、阿満先生の著書の中で、度々触れられています。ですが私は、本願念仏に出会う過程について、さらに踏み込んだ内容に出会いたかったのです。
そして『『歎異抄』講義』を読んだとき、私が待っていた本が出版されたと感じました。

といっても、阿満先生が「現代人のための本願念仏への通路」を明らかにしたいという意図で、この講義を行い、この本を出されたわけではないでしょう。また、直接結びつくような記述があるわけではありません。
ですが私は、一人の人間が本願念仏に出会い、それと共に生きていくことがどういうことなのか、この本から感じ取りました。これまでの阿満先生の著書からは、一歩踏み込んだ内容に思えたのです。

ですから『歎異抄』に初めて触れる人には、なかなか理解できず、逆に宗教や本願念仏に対して距離を感じてしまうかもしれません。そうような人にはまず、阿満先生の書かれた『無宗教からの『歎異抄』読解』(ちくま新書)をお勧めします。

以下に『『歎異抄』講義』から少し引用し、紹介します。

自分の思うように生きてきた、という人の背後にはどれだけの人が迷惑を受けて生きてきたか。他人の様々な生き方を蹴飛ばして、自分の生き方を主張してきた。程度の差はあれ、それが人間の生き方というものです。智慧のなさ、愚かさが自我を想像以上に肥大化させています。

ここを読んだとき、まず今は亡き父母のことを思いました。今更、申し訳ないなどということもできません。

念仏は私の中で阿弥陀仏がはたらく姿です。南無阿弥陀仏と私が称えることを除いて阿弥陀仏はどこにも存在しません。私を摂取不捨の中に連れて行くはたらきが阿弥陀仏です。阿弥陀仏の本質は、私たちに真理への回路を持たせるということです。

阿弥陀仏誓願を信じて念仏申さんという気持ちがほんのわずかでも起こった時に、私たちはすでに阿弥陀仏に摂取不捨されているのです。私たちは煩悩に覆われているためにそういう心が起こることは非常に稀です。それだけに、めったに起こすことのないような心を起こした瞬間に真理への回路が出来上がるのです。
(中略)
念仏の回数が増えていってある時、またぱたっと念仏をしなくなることもある。楽しい暮らしが続き、念仏のことなど忘れてしまっても、またいつか念仏をするようになります。一度出来た回路はきちんと生き続けます。そういう回路を作るのが念仏の行為なのです。観念だけでは、そういう回路は出来ません。自分が念仏することで回路が出来ます。

「回路」という表現に深く納得できました。

「信心」は、阿弥陀仏の物語を聞き、それが自分にとって必要不可欠なものだとして、選択するという意味です。単に、神仏をなんとなく信じる、ということではありません。阿弥陀仏の本願が、自分にとって必要不可欠だという決断を前提としています。

そうです。だから私は念仏を称えるようになったのです。

念仏する暮らしは、自然(じねん)に、という点にあります。何か強迫観念のように、これをしなくてはいけないと考えると、道徳的な実践になってしまいます。宗教的実践は、おのずと放っておいても出来るということが大事なことです。(中略)苦しかったり強迫観念に駆られるくらいなら、布施などやらなくていいのです。宗教は私たちの心を自由に豊かにするものであって、強制や自分の心を縛る形になるのなら、宗教心ではありません。

宗教的な救いとは、きっとここにあるのでしょう。

この本には、貴重な言葉が沢山収められています。これから時を変えて、何度も読み直すことと思います。