前回、『人間はどう死ぬのか』(久坂部羊=著 講談社現代新書)について書きました。
その中で、著者と私の違いについてふれました。読み方によっては、この本を否定しているようにとられかねないのですが、決してそういうわけではありません。
この本は、これまでの私にはなかった新しい気付きも与えてくれました。今回は、私が気付かせてもらったこと、それによって考えてみたことを書いてみたいと思います。
なお、前回も断りましたが、この本は、医師でもあり作家でもある著者が、主に医学的な見地から「死」について書いたもので、宗教的な内容の本ではありません。ですから、私が取り上げる内容は、あくまでもこの本の中の一部分についてです。
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この本の最後の章、第九章「“上手な最期”を迎えるには」で、久坂部氏は、上手な最期とは、死ぬ前に「いい人生だった」と思える、つまり自己肯定して死んでいくことではないか、と書いています。
では自己肯定とはどういうことなのか、著者は次のように続けます。
最後まで自己肯定できず、人生に悔いを残しているとしたら、それはある種の驕りではないかと私は思います。もっとうまくできたはずだとか、もっと頑張れたはずだというのは、自己を過信しているから思うことでしょうし、あんなことをしなければよかったとか、愚かなことをしたと悔やむのも、自分はもっと素晴らしい人間のはずだという思い込みがどこかにあるからではないでしょうか。
『人間はどう死ぬのか』(久坂部羊=著 講談社現代新書)
ここを読んで、私は「なるほど、そうだな」と思いました。
そして、念仏をとなえる日々をおくる私からすると、このことは正に、苦しみに落ちていく者が、凡夫である己の姿を痛いほどに知り、そして阿弥陀仏の誓願に出会い、壊れかけてしまった自分自身の再生に向かうプロセスに通じるものがあると思いました。
過去を振り返れば、私には、思い出したくないこと、取り返しのつかないことをしてしまった思いから離れられない辛い出来事、人には言えないほど情けないことが沢山あります。それでも自己肯定をして生き、そして死を迎えるには、「自己の過信」を捨てること、つまり凡夫である自分を認めることなのでしょう。
ではどうやって「自己の過信」を捨て去って「自己肯定」に至る道が開けるのか。その具体的な方法については久坂部氏は著していません。(それがこの本の主題ではないので当然ではあります)
私の場合は、自分の力ではどうしても「自己の過信」を捨てきれないのです。頭では「自分は凡夫なんだ」とは分かっても、心の底から思っているとは自分自身で感じられません。
久坂部氏は、またある人たちは、自分の力で「自己の過信」から抜け出せるのかもしれません。様々な方法や考え方で、「自己の過信」を捨て去って「自己肯定」に至る道を見つけているのかもしれません。
ですが、私にはできないのです。だから私は、念仏をとなえる者は全て浄土へ向かい入れるという阿弥陀仏の誓願をたよりに、念仏をとなえるしかないのです。
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この「自己の過信」についての箇所を読んだとき、みうらじゅん氏の著書『マイ仏教』(みうらじゅん=著 新潮新書)の一節が思い返されました。
というのも歳を重ねると、自分はたいした奴じゃないという自覚が強くなってきます。しかし、それに反比例して、立場は少しずつ良くなってくるものです。
(中略)
結局、「自分探し」が行き着く先もここです。思っていたよりたいしたことのない自分を見つけてしまう。それを認めるか認めないか。人によってそれは違ってくると思いますが、たいしたことのない自分を認めるというのは、誰にとっても悔しいことです。人によっては傷ついてしまうかもしれません。
必死になって自分を探した結果が、「たいしたことない」では浮かばれません。そんな徒労を重ねるよりは、早く「自分をなくす」方法を身につけた方が、他人の機嫌も取れるし、回り回って自分も得をします・
『マイ仏教』(みうらじゅん=著 新潮新書)
ここでも同じようなことが書かれていると思います。
私は「自分をなくす」ことが、できません。
私は本当に我が強く、従来から競争心も強く負けず嫌いで、人から評価してもらいたい気持ちも強く、そして、自分は正しいという思いからなかなか離れられないのです。今でも、そういう部分はなくなりません。
こう書いている今も、こんなことあえて書いているのは単なるポーズで、「オレはわかってんだ」というような「わかったふり」をしているだけではないか、という疑念は消えません。
この消せない「我」が、私や周りも苦しめて、窮地に追い込んできたのです。今でも、私の「我」は私を苦しめ続けます。それは分かっていても、それでも消せないのです。
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久坂部氏がいうように「自己の過信」をなくしたり、みうら氏の書くように「自分をなくす」方法を身につけることができれば、穏やかに人生の終わりを迎えられるのでしょう。
そして、何より、今生きていることを楽にしてくれるはずです。
問題は、どのように「自己の過信」をなくし、「自分をなくす」かです。頭でわかっても、なかなかなくなりません。
その方法が、私の場合は、私自身の理解や判断が及ばない世界、阿弥陀仏の物語を受け入れて、念仏をとなえることなのです。
「こんなことは作り話だ」と思えることを、わが身に受け入れて念仏をすること、それが私にとっての、「自己の過信」をなくし、「自分自身をなくす」ことにつながる方法に思えるのです。