残された人生の生き方を求めて

平均寿命まではまだまだですが、50代後半に差し掛かって、残された時間で、本当に知りたかったこと、そしてその答えを探していくなかで、お念仏に出会いました。私の考えたことや、その手助けになった本や体験を書いていきたいと思います。

一本の糸 ~念仏をとなえる生活~

今私は、念仏をとなえる生活を送っています。
その心は

本願を信じ念仏をまうさば仏になる(『歎異抄』第十二章)

という『歎異抄』にある一節を、そのままいただいています。
なぜ、その言葉をいただくのか。それは、やはり同じ『歎異抄』の一節、親鸞聖人の語った言葉

いづれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。(『歎異抄』第二章)

と感じたからです。

私は親鸞聖人のように、「いづれの行」を行ってきたわけではありません。
ただ単に、充実した人生を送ろう、そして周りの人とともに幸せを手に入れよう、と私なりに精一杯考え、行動して、これまで生きてきただけです。
ですが、結果は虚しいことばかりで、むしろ私自身はもちろん、周りの人をも困らせ、苦しめてきたのです。

では、今は何の疑いもなく、念仏の生活を送っているのでしょうか。
疑い、というより、私自身について分からないことは、よくあります。

例えば、私は本当に阿弥陀仏誓願を信じているのか、先に書いた「本願を信じ念仏をまうさば仏になる」という言葉を、本気で信じているのか、ふと疑問に思うことがあります。
念仏の暮らしの中では疑問も起きてくるものだ、と、私が勝手に私の善知識と思っている阿満利麿先生は言ってます。阿満先生は度々、誓願に対しての疑問は凡夫である限り、なかなか消えることはないのだと、著書や講演で触れています。

ですが、自分のことなのに、その自分自身が、阿弥陀仏誓願を信じているのか、信じていないのか分からないなんて、おかしな話です。
信じているから念仏をしているはずです。ですが、「これは本当に信じているということなのだろうか」という疑問が、なかなか頭の片隅から離れません。

南無阿弥陀仏」などと称えて、殊勝な念仏者ぶっているだけではないのか。そうすることで、「真人間」にでもなったつもりなだけではないのか。聴聞に通ったりしているけれど、なにかいいことでもしてる気になっているのではないか。実際は、相変わらず適当な生き方しかしていないではないか。

しかし、念仏は私の行ではない、私の「手柄」ではないのです。

念仏は行者のために非行・非善なり。(『歎異抄』第八章)

それが分かっていて念仏をしているならば、私は殊勝な念仏者ぶっているわけではないのかもしれません。
ですが、本当のところは、やはり分かりません。こんなこと書いていること自体、何か自分に対しての言い訳をしている気もします。

それが煩悩にまみれた凡夫の姿、今の私の姿なのだ、と考えて納得しようとしても、その次の瞬間には、いや、自分は「煩悩」や「凡夫」とかいうもっともらしい言葉を使って、また自分を正当化しようとしたり、格好つけたりしているのではないか、と感じるのです。

法然上人の弟子に耳四郎という元盗賊がいたそうです。
ある日の夜中、耳四郎はたまたま、法然上人が一人念仏をしているのを聞きました。しかし、誰かがいる気配を感じたのか、法然上人は念仏をやめてしまいました。
後日、法然上人は耳四郎に、以前夜中に念仏をとなえていたこと、それを耳四郎が聞いたことに気が付いたことを話したのです。あの夜の念仏こそ往生の確信が生まれる念仏なのだ、人目を気にして飾る心を捨てて真実の心でとなえる念仏なのだ、と言ったそうです。(『法然入門』阿満利麿=著 ちくま新書 の内容を参照にさせていただきました)

しかし私の場合は、もっと根が深いのかもしれません。
一人、部屋で念仏をとなえているときも、「自分はいいことをしている」というような心が、全くなくなっているとは言い切れないのです。何か「結構なことをしている」、そんな気持ちになっている自分がいる気がしてならないのです。

では、いっそのこと念仏などやめたほうがいいのでしょうか。
それでは、私が苦しみから抜け出る方法がなくなってしまいます。
もとに戻りますが、私は

とても地獄は一定すみかぞかし

なのです。
これは間違いありません。これまでの私は怒りや不安に心をかき乱され、苦しんできたのです。このままの状態で人生を終えることはできない、そういう思いから、念仏の生活に入ったのです。

「念仏をとなえる」という一つの行為をとっても、このような様々な思いが湧きおこります。自分の中で、反問を繰り返していくと、本当の私の考えや心が分からなくなります。
おかしな話です。自分の心や行動なのに、自分では、一体本当の自分がどこにいるのか分からないのです。

私のあらゆる心や行動が不確かに思える中、ただ一つ残された確かな行い、それが念仏をとなえることなのでしょう。
真実の心でとなえているのか分かりません。そもそも、阿弥陀仏の本願を本当に私は信じているのかも不確かです。
ですが「念仏をとなえる」という、わずか一本の糸が残されているから、それにつなぎ留められて、私は「自分には、まだ希望がある」と感じられる気がします。
一本の糸、それは、とてつもなく強い糸なのかもしれません。
歎異抄』の結文が思い起こされます。

煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもてそらごと、たわごと、まことあることなきに、たゞ念仏のみぞまことにておわします(『歎異抄』結文)