残された人生の生き方を求めて

平均寿命まではまだまだですが、50代後半に差し掛かって、残された時間で、本当に知りたかったこと、そしてその答えを探していくなかで、お念仏に出会いました。私の考えたことや、その手助けになった本や体験を書いていきたいと思います。

京アニ放火殺人事件に思う

京都アニメーション放火殺人事件の青葉被告に死刑判決が言い渡されました。(2024年1月25日)

やはりというか、当然だろうという思いはあります。あれほどの凄惨な事件なのですから。
しかし、この事件は私にとっても、とても大きなできごとでした。
それは、この事件以後「私も青葉被告と同じなのだ」という思いが頭から離れないからです。

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それには根拠があります。
この事件が起きたとき、私の妻は子供を連れて家を出て、離婚の協議中でした。そして妻と共同で行っていた事業も行き詰まり、多額の負債を抱えて、破産を回避するために無我夢中の状態でした。(結局はその後、離婚、破産をして、家庭も財産も仕事も、全て失うことになったのですが)

私からすると、妻が私を裏切って子供を連れて出ていった、という思いがあり、悲しさや寂しさと同時に、怒りの気持ちもありました。
今にして思うと、離婚理由や、経済的に追いつめられた大きな原因は私にあったのでしょう。もっとも、妻の側にも問題はあったと思うのですが、結局、何が、そして誰が原因でそうなったのか、今でも私には分かりません。
そして、やはり当時の私は、妻に対しての怒りを抑えることができないでいたのです。

そんな時に、京アニ事件が起きました。
私は、犯人の起こした恐ろしい凶行に、恐怖と嫌悪感を覚えました。
ですが同時に、私も今、前妻が子供たちと住んでいる所にガソリンを撒いたらどうなるだろうか…という考えが起こってきたのです。

具体的な段取りを考えたわけでも、何か準備を始めたわけでもありません。ただ頭の中に漠然と、自分が放火殺人を行うイメージが湧き上がってきたのです。

恐ろしいことです。
私は、そういうイメージが、京アニ事件に触発されるように浮かんでくること自体に、恐れを感じました。
そして自分が放火殺人を行う、その恐ろしいイメージが湧き上がってくるたびに、頭の中で打ち消し、別のことを考えようとしました。
ですが、どうしても打ち消せない時、実際に実行したらいったいどういう結果を引き起こすか考えてみたのです。

そうすると、浮かんできたのは、私の身内のことでした。
私には姉がいて、家庭を持っています。その子供、つまり私の姪は、すでに成人して仕事についていますが、まだ独身でした。特に、その姪のことがまず浮かびました。
私がそんな犯罪を犯したら、まず姪は結婚できないでしょう。姉夫婦も含めてみんな、仕事もやめなければいけないかもしれません。今住んでいる所からも転居しなければならなくなり、もしかしたら、以後、本名は名乗れなくなるかもしれない…。
そういうことが想像されて、私は絶対に、そんな犯罪は犯すことはできない、と思いました。

私は具体的に放火殺人を企てたわけではありません。ですが、頭にそういうイメージが浮かんでくることを止められませんでした。
そして「そんなこと、できるわけがない。してはいけない」と思わせてくれた一番の原因は、姪、そしてその親である私の姉と義兄の存在でした。

報道によると、青葉被告は家族環境にも恵まれず、孤独な日々を過ごしていたと聞きます。
もし彼に、「自分がこんなことしたら、あの人は…」と思える存在が一人でもいたら、踏みとどまった気がするのです。
裁判では、被害者に家族がいたことは思いが及ばなかったと言っていたようですが、青葉被告自身に大切に思う人がいて、その人に被害が及ぶことを考えれば、ブレーキを踏むことはできたのではないかと思うのです。

「いや、彼にはそういう想像力すらなかっただろう」という指摘もあるかもしれません。
でも、果たしてそうでしょうか。やはり、そういう存在がいなかったことが、彼にブレーキを踏ませなかった、大きな原因の一つに思えるのです。
そして、私にはそういう存在がいた…。

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私は思うのです。
青葉被告と私の違いはそれだけなのかもしれない。
そして、そういう存在がいたのは、私が良心的な人間だったからではない。努力して、頑張ってきたからではない。たまたまです。
たまたま、優しい姉に恵まれ、その姉が家庭を持って、子供を立派に育ててきた。そういう環境に、私は偶然、生まれてきただけなのです。

そうです。
私も青葉被告と同じなのです。何かあれば怒りに駆られて、人を殺めるイメージに取り付かれてしまう、そういう人間だったのです。

わがこゝろのよくてころさぬにはあらず。また害せじとおもふとも、百人千人をころすこともあるべしと
歎異抄』第十三章

この言葉が、我が身のことと知らされた出来事が、京アニ事件でした。

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この事件を通して今、二つのことが私の中に問題として生まれています。
一つは死刑制度のこと。
もう一つは、「彼」と「私」を隔てるものは何なのか。「私」が「彼」になっていた可能性もあるのに、それでも私は「私」であり、「彼」ではない。それはどういうことなのか。

意味合いは全く違いますが、この二つの問題が、私に突きつけられました。
今はまだ、考えがまとまりません。
考えがまとまったときには、また書き留めておきたいと思います。