残された人生の生き方を求めて

平均寿命まではまだまだですが、50代後半に差し掛かって、残された時間で、本当に知りたかったこと、そしてその答えを探していくなかで、お念仏に出会いました。私の考えたことや、その手助けになった本や体験を書いていきたいと思います。

バカは死ななきゃ…

浄土の教え、念仏とは。今の私の理解は以下の通りです。

煩悩具足の私は、生きている間に煩悩を離れることは不可能です。そのため、我が名を称えるものは死後、必ず我が国「極楽浄土」へ生まれさせる、という阿弥陀仏誓願を信じ、念仏を称える。私が煩悩から離れるために残された道は、それしかありません。

なぜ、煩悩から離れたいのか、それはその煩悩が私自身を苦しめているからだ、と身に染みて感じたからです。
煩悩とは、ただ単なる「欲望」ではないのでしょう。自分を「我(われ)」と感じている、その意識そのものではないかと思います。
それがあるがゆえに、欲望を起こすことはもちろん、他人と比較して妬んだり苦しんだり、思い通りにならないことに怒ったり、称賛されたい気持ちに駆られたり、挙句の果てには自分で自分を追いつめ、苦しめ、実生活でも自分を窮地に追い込んできたのです。

ではなぜ、今生では煩悩を離れられないのか。
それは今書いたように、「煩悩」とは、自分を「我」と感じていることが根本原因なんだと思います。その意識が生きているうちに無くなるはずがありません。

*      *      *

そうして私は今、念仏の生活を送っているのですが、浄土の教えを知った最初のころから、今までずっと、思っていたことがあるのです。
浄土の教えが説いていることは、結局
「バカは死ななきゃ治らない」
ということではないのか。

そのような表現で浄土の教えについて説く人に出会ったことはありません。
ですが、ずっと私は心の片隅で、浄土の教えとは、結局「バカは死ななきゃ…」ということではないか、と思い続けてきたのです。

確かにそうなのかもしれません。だから死後、極楽浄土への往生を願うのでしょう。
ですが「バカは死ななきゃ…」という言葉を思い浮かべると、事実かもしれないけれども、だからこそ私は念仏をとなえるのだけれども、元気が出てこないのです。
「そりゃ、そのとおりかもしれないけど…」と、思わずうなだれてしまうのです。そう言われてしまったら、身も蓋もない、とでも言えばいいのでしょうか、なんともいえず悲しく、寂しい気持ちになってしまいます。たとえ、阿弥陀様の誓願によるすくいがあるにしても、です。

なぜそう言われると、元気を無くし、悲しい気持ちになってしまうのでしょう。
言い方自体が「バカ」という表現も含めて、乱暴だからかもしれません。「バカ」に対して思いやりのない表現ではあります。

ですが、もっと根本的な理由として、やはり私は、生きているうちにバカを治したい、と思っているからではないでしょうか。生きているうちに煩悩を滅したい、そういう思いが、やはりあるからだと思います。

頭では、生きているうちに「バカ」を治す、つまり煩悩を滅するなど不可能だと分かります。煩悩は「私」そのものだ、とこれまで聞いてきた説法や、読んできた本でも知らされて、十分納得しています。
ですが、心の奥底では、やはり今生で煩悩を滅して、苦しみから逃れたい、という思いがあるのでしょう。

ですが、そういう思いから離れられないのも仕方ないことなのかもしれません。それが、私の現実的な思いなのです。そして考えていくうちに、最終的に阿弥陀仏誓願を頼むことに行きつくのです。
話は堂々巡りの様相を呈してきました。

*      *      *

悲しいけれど、やっぱり「バカは死ななきゃ…」なのか、と再び考えたときに、私が勝手に自分の善知識と仰いでいる阿満利麿先生の言葉が思い浮かびました。

念仏によって、死後、私たちは仏になります。仏とは、人間の完成体のことでしょう。仏教では、人間は未完成だと考えています。その理由は、人間には智慧がなさすぎる点にあります。その智慧の完成を目指すのが仏教ですが、「阿弥陀仏の物語」は、その完成は死後のこととしています。なぜ死後なのか。それは生きている間は煩悩がはたらいて智慧の完成を妨げるからです。しかし、死後が大事なのではありません。生きている間に智慧の完成に至る道を歩むことに意義があるのです。念仏のたびに、智慧の完成への道を遅々としてではありますが、確実に歩んでいるのです。そして、肉体の死は、念仏という仏道のなかの通過点でしかないのです。死が問題なのではなく、智慧の完成につながる道を歩むことに意味があるのです。

『『歎異抄』講義』 阿満利麿=著 ちくま学芸文庫(以下同じ)


阿満先生は、講演や本の中で、我々は念仏によって仏道を歩んでいく、仏になるのは死後のことだけれども、少しずつでも念仏によって仏道を歩んでいるのだ、と繰り返し話していました。

また、こうも書いています。

浄土仏教は、人間を徹底的に否定することが前提となって生まれてきている宗教なので、否定の段階で止まったら、あきらめ論か運命論で終わってしまいます。しかし、絶望のなかで阿弥陀仏の本願と出遇うことによっていわば再生してくる。肯定の暮らしが始まるのです。その道は曇天でしかありませんが、暗黒ではありません。そこが浄土仏教の大きな特徴です。

「曇天の仏道」はいつも煩悩によって真理が見えない曇りのような状態で生きていくしかありません。曇天でしかありませんが、曇天と暗闇の差はものすごい違いです。暗闇から解放されたことはすごいことです。念仏をしないと曇天という感覚は生まれてきません。

念仏を一声称えたからといって、快晴のような心境になるのはおかしな話です。自分の煩悩の深さを思えば、曇天の仏道であっても、すごいことが生じているのだと思います。

宗教に触れると、晴天の道を歩んでいく、と思う人がいるけれども、そうではない、曇天の中をいくのだ。だけれども、暗闇と曇天では大変な違いがある、と阿満先生は繰り返し話します。

「バカは死ななきゃ…」という言葉にうなずきつつ、悲しい気持ちになってしまうのも、煩悩具足のわが身ゆえなのでしょう。
だけど、それこそが曇天の仏道を歩み、ゆっくりと一歩一歩、苦しみから抜け出しつつある姿なのかもしれません。

南無阿弥陀仏