残された人生の生き方を求めて

平均寿命まではまだまだですが、50代後半に差し掛かって、残された時間で、本当に知りたかったこと、そしてその答えを探していくなかで、お念仏に出会いました。私の考えたことや、その手助けになった本や体験を書いていきたいと思います。

『親鸞』五木寛之

五木寛之さんの小説『親鸞』を初めて読んだのは四年ほど前です。
色々感じるところはあり、前々から感想を書き留めておきたいと思ってきたのですが、なかなか書くのが難しく、結局これまで六回ほど読み返してしまいました。

書くのが難しい理由のひとつは、この本が実に多彩な側面を持ち、様々な要素を含んでいることにあると思います。
つまり、色々な読み方ができるのです。

例えば、エンターテイメント小説として、冒険やアクションシーンを楽しむことができます。一方で、歴史小説として、舞台となった時代の風俗や人々の生活を知ることができます。そして、宗教を扱った本として、人の内面を深く掘り下げていくところもあります。

そのように多彩な面を持ち、様々な読み方ができるのですが、まず頭においておくべきことは、親鸞聖人の詳細で正確な伝記ではない、ということです。もっとも、親鸞聖人に関する記録はそれほど多くは残されていないらしいので、いずれにしても著者の創造力に委ねられるところは多くなるのでしょう。
五木さん自身、この作品について、あとがきで「あくまで俗世間に流布する作り話のたぐいにすぎない」と書いているように、創作の比重は大きいと思います。(それにしても素晴らしい「作り話」だと思いますが)

ですが、著者による創作の部分があるにしても、その中に通じている念仏の教えに対しての内容は、大変考えさせられました。
ひとつの大きなテーマとしては、「悪」の問題があるでしょう。
「悪」の象徴として、そして親鸞の影の存在のように、黒面法師という人物が何度か現れます。黒面法師は親鸞に、自分は十悪五逆の悪人、その悪人が本当に本願によって、すくわれるのか、そんなはずはないし、そんなことがあってはならない、と繰り返し迫ります。
また、その他の登場人物を通しても、自身の罪を心から懺悔できない「不幸な人間」のすくいについて度々問いかけられます。

例えば次のような、親鸞に問いかける弟子の言葉があります。

世の中には、至心に懺悔して、わが罪を悔いることができない不幸な人間がいるような気がしてなりません。口先で後悔しても、心の底から懺悔する思いがわいてこないのです。

また次のような、親鸞の弟子同志のやりとりもあります。

「では、あの黒面法師はどうなのです。十悪五逆の真の悪人たるあの男は?」
親鸞はすぐには答えなかった。横から真仏がひとりごとのように低い声でいった。
「おのれの悪を自覚し、ふかく懺悔して念仏に帰すれば、すくわれるのではあるまいか」
真仏の言葉に、頼重房ははげしく首をふった。
「それは違うでしょう。おのれの悪を自覚して、さらにその上、ふかく懺悔するなどというのは常人のこと。最後の最後まで悪を反省せず、念仏にも耳をかさない極悪人こそ、本当にあわれな者ではありませんか。そしてこの世でもっともあわれな者からすくう、というのが阿弥陀さまの悲願ではないのですか」

小説の中の親鸞は、どのような者であっても、念仏を唱えればすくわれる、と言い続け、念仏を信じない者のすくいについても答えています。
ですが、小説として、懺悔することもしない、できない者もすくわれた、という結末は訪れません。

おそらくこれは、著者である五木さん自身が今も問い続けている問題であり、この問いかけは五木さん自身についてのことなのかもしれません。
私はこれまで五木さんの本を読んできて、五木さん自身から強く複雑な「悪」の自覚を感じるのです。ことに、かなり前に記事にした『人間の運命』を読むと感じます。ここまで踏み込んで自分自身の罪について考察した作家は、なかなかいないのではないでしょうか。

thinking-about.hatenablog.com

その五木さん自身の問いかけが、「悪」の自覚なき者のすくいが成立するのだろうか、なのかもしれません。

私が思うに、自分は十悪五逆の極悪人と自覚した時点で、懺悔はしていなくても真の極悪人から一歩抜き出しているのではないでしょうか。
では、自覚すらできない人間はどうなるのか…。
私なりに出来る限り考えてみるのですが、その問題に関しての明確な答えは、まだ見つかりません。また、果たして、どのような状態が、「心の底からの懺悔」なのかも分かりません。これは、私に答えが出せるような簡単な問題ではないのかもしれません。

このように、「悪」の問題、そのすくい、そして「宗教」について、深い問いかけが含まれているのですが、一方で、純粋に人間ドラマとして、心を揺さぶられるシーンも数多くあります。

特に私の印象に残ったシーンは、ラスト近く、親鸞の臨終に近い、雪の日の描写です。
これまで様々な小説を読んできましたが、死が間近である一人の人間を、これほど切なく、悲しく、美しく描写した小説は記憶にありません。
おそらく著者は、この小説を書きながら、まさに親鸞聖人とともに人生を歩んだのでしょう。だからこそ、このような心を揺さぶられるエンディングが描けたのだと思います。