残された人生の生き方を求めて

平均寿命まではまだまだですが、50代後半に差し掛かって、残された時間で、本当に知りたかったこと、そしてその答えを探していくなかで、お念仏に出会いました。私の考えたことや、その手助けになった本や体験を書いていきたいと思います。

他の生命を奪って生きること

私たちは、他の生物の命を奪い、それらを食べて生きていて、その時点で悪を背負っている、と言われます。

そのことは理解できることですが、私は実感として強く罪の意識は感じたことはありませんでした。
動物にしても、植物にしても、人間に食べられるために生まれてきたわけではありません。ですが、その命を奪って、食べて、私たちは自分の命を保っているのです。
だけど、それに対して「悪」の実感が、私にはあまり湧かなかったのです。

金子みすゞさんの「大漁」という詞があります。とても有名な詞なので、知っている方も多いと思います。
鰯の大漁に港は喜びにあふれています。だけどその時、海の中では鰯たちはどういう思いでいるのでしょうか、という詞です。
金子みすゞさんのような海の中にいる鰯たちに対する想像力は、私はきっと持ち合わせてはいないのでしょう。

ところが先日、自分でも驚くくらい、他の生き物の命を奪うことの罪深さを感じさせられることがありました。
銀行で窓口を待っているときに、置いてあるテレビに目がいきました。何かのニュースだったと思いますが、ずっと見ていたわけではなく、たまたま目に入っただけなので、何のニュースかもわかりません。ですが、そこに映されていた映像に驚かされました。

それは、養豚場で飼育されている豚たちの様子でした。
金属パイプのようなものでできた枠が並び、その中に豚が収まっています。枠の大きさは豚の大きさにぴったりで、ほとんど身動きができない状態です。
もしかしたら餌を食べる時だけ、そこに入るのかもしれません。普段はもう少し動ける枠の中にいるのかもしれません。

だけどその様子は、 いかにも「飼育されている」状況を感じさせました。私は養豚場の様子をこれまでも映像や写真などで見たことはあったはずなのですが、その狭い枠に収まった豚たちの様子と、最近特に自分の生き方に対して様々な考えを巡らせていることもあってか、その養豚場の映像に衝撃を受けました。

 最初に、他の生物の命を奪うことに対する罪悪感を、あまり感じたことがないと書きましたが、今回は違いました。
一言で言うと「こんなことを、してしまっていいのか」と思ったのです。
あの豚たちは、食べられるだけの目的で生まれて、外の世界も何も知らずに成長させられ、殺されて我々人間に食べられるのです。
海山にいる生物を捕獲して食べるのではありません。食べるために生殖もさせて、子供を産ませて育てるのです。

そんなことを言ってしまえば、いま私たちが口にする食べ物のほとんどは、肉も魚も野菜も、食べるために育てられたものでしょう。そのことを私は知らなかったわけではありませんが、あの養豚場の映像によって、その事実に対して今まで感じなかった気持ちが生まれたのです。

こんな残酷なことをする生き物は、この地球上にはいません。想像上の生き物やSFの世界でも私は知りません。
例えば、『進撃の巨人』という作品があります。私はほとんどこの作品を読んでいません。なぜならば、巨人が人間を食べるというシチュエーションがすでに受け付けられないからです。もっとも読んだ人の話では、ストーリーはとてもいい作品だそうなので、私の読まず嫌いなだけかもしれませんが、ともかく人間を食べるということに私は拒否反応を示してしまうのです。
ですが、その巨人さえも、人間を食べるために養殖はしません。人間に性交させて子供を産ませ、その子供を取り上げて、成長したら食べるために檻の中で育てることなどしていないでしょう。

『MATRIX』という映画があります。人間がAIによって飼育され、その人間はカプセルの中で眠っています。その人間たちはAIに電気エネルギーを供給しているのです。いわゆる電池の役割です。
ですが、その人間たちはAIにより、現実世界で生きているような夢を見せられて、自分たちが電源の役割として飼育されていることは知りません。
私たちが豚を飼育していることは、これよりさらにひどいことではないでしょうか。豚たちは夢の世界に生きることさえ、できないのです。

豚肉を買いにスーパーに行けば、安くておいしそうな肉が並んでいます。品質の揃った肉を安く大量に確保するために、今のような家畜の育成方法ができあがったのでしょう。その肉を食べているこの私も、間違いなくそのシステムを作り上げた一員です。
こんなことが許されていいわけがないのです。だけど、その悪から逃れようとしたら、野山に生えてる草や、空を飛ぶ鳥や、海の魚をとるしかなく、確実に飢えてしまうでしょう。

他の生物を殺して、自分の命をつないでいく。
それは自然の摂理かもしれませんが、今の状況は完全にそれを逸脱してしまっていると思います。
問題は、それに気が付いていながらも、今日もまた肉や野菜を食べ続ける、そんな「私」という存在にあるのでしょう。