残された人生の生き方を求めて

平均寿命まではまだまだですが、50代後半に差し掛かって、残された時間で、本当に知りたかったこと、そしてその答えを探していくなかで、お念仏に出会いました。私の考えたことや、その手助けになった本や体験を書いていきたいと思います。

現世利益

もう十数年前のことです。
私は離婚を経験し、その時同時に同居していた母を癌で亡くしました。
母はスキルス性胃癌で、発見されてから亡くなるまで1ヶ月もなく、あっという間のできごとでした。その最中に妻は私の元から離れていきました。1ヶ月の間に母と妻が私の元からいなくなりました。
残されたのは私と、同居している認知症にかかり始めていた父でした。

その当時のことで、強く印象に残っている出来事があります。
母の四十九日も終わったころ、父方の叔母から、話がしたいとの連絡が入りました。その叔母は以前からある宗教団体に入っていたので、話の内容の察しがついた私は行きたくありませんでした。
しかし私が行かないというと、父が大変な剣幕で怒り出すのです。父はこの1年、言動がおかしくなりはじめ、会話が成立しないことが多くなりました。とりあえず一度でも会えば父もおさまるだろうと思い、叔母のところへ行くことにしたのです。

連れていかれたのは叔母の家ではない一般家庭の家で、大きな仏壇がある部屋に通されると、リーダーと思わしき年配の女性と数名の女性の方が待っていました。
そこで、私に対する慰め、励まし、そして自分たちの仲間になろう、こんなに素晴らしい教えがある、と聞かされました。

そして、リーダーらしき方がこう言いました。
私たちの集まりには未婚の、あなたぐらいの年齢の人やもっと若い世代のグループもある。
つまり、離婚をしてしまった私に、出会いの場もあるんだよ、再婚相手も見つかるよ、ということを言ってくるのです。

私は、正直に言うと、嫌な気持ちになりました。
その理由の一つは、私の意地もあったと思います。
「自分は苦しくなんかない、つらくなんかない、こんなことに頼らなくてもいい」
私もかなり我が強いタイプですので、その時の私の弱いところ、つまり母も妻もいなくなった寂しさを突かれたことに対して反発したのでしょう。

その当時私はまだ40歳くらいだったので、このまま一人で生きていくのはいやだ、やはり可能ならばもう一度、家庭を持ちたいと思ってました。
ですが、この仲間になれば出会いがある、という誘いには乗る気になれなかったのです。
そして、そもそも本当に家庭をもつ意味や必要性はあるのだろうか、その欲求は寂しさからだけなのか、再婚すれば寂しさは消えるのだろうか、とも考えたのです。

今にして思うと、自分の欲を見透かされて誘いをかけられたことに対する反発、そしてその欲が根本的な原因なのに、そこを直視しない自分への疑問を感じたのでしょう。
そして、私が求める根本的な解決策を示してくれず、ただ「私たちの仲間になれば再婚もできる、いいことも沢山ある」と勧誘してくるやり方に拒否反応を示したのだと思います。

結局私は、今の私は自分を不幸とは感じていないので結構ですと言い、断って帰ることにしました。

最寄りの駅まで、リーダーの方が仲間数名と車で送ってくれました。
その車内ではその仲間同士の会話が中心で、私はただそれを聞いていました。他宗教への批判が起こる中で、リーダーの方が仲間たちに「現世利益を求めて何が悪いのよ、ねえ」と強い口調で言ったのです。

私はそれを聞いて、この人たちの仲間にはなれないとはっきり感じました。
「現世利益」が何を指すのか、私が誤解している点もあるかもしれませんが、今の生での幸せ、そのためのお金だったり、病気を治すことだったり、家庭を持つことだったり、そういうことを指していると、私は解釈しています。
その前提で書くと、現世利益を求めることは、ある意味自分に正直ですが、根本的な苦しみの解決、つまり幸福感にはつながらないと感じたのです。

私だってお金は欲しいです。特に今は経済的にも苦しい状況なので、1億円の宝くじが当たったら嬉しいです。お金は欲しいと思います。
ですが、それを求めて何が悪い、という態度は、私には開き直りに見えるのです。開き直りとは、心の底では悪いことだと分かっているのに、その気持ちを押し殺して正しいことだと主張すること、と私は考えます。
つまり私は、お金も欲しい、病気にはなりたくない、という願望を持つことに、心の底で違和感を覚え、罪の意識を感じているのです。

そこで違和感を覚えずに、「そうだ、幸せを求めて、お金や健康を求めることは悪いことではないんだ」と開き直らず素直に思える人は、現世利益を約束してくれる教えを信じることも可能でしょう。
私は、そういう人たちを悪い人、間違った考えの人とは思いません。そもそも私はそういう人たちをとやかく言う立場ではないです。幸せになりたいのは誰しもの願いでしょう。
ですが、私は違うのです。

私が考える「幸せ」とは「悲願」なのかもしれない、と今ふと思いました。
お金は欲しい、健康でもいたい。
だけど、きっと私が本当に求めていることは別にあるのだと、今は思うのです。