残された人生の生き方を求めて

平均寿命まではまだまだですが、50代後半に差し掛かって、残された時間で、本当に知りたかったこと、そしてその答えを探していくなかで、お念仏に出会いました。私の考えたことや、その手助けになった本や体験を書いていきたいと思います。

それでも、人との関りを持ち続けたい

例えば仕事上でも、なかなか他の人と意見を合わせていくのは難しいです。
お互い別の人間で、それぞれの利害がぶつかることもあるから、意見が食い違うのは当然です。
ですが、中にはどう考えても、私のいうことの方が筋が通っていて正しいだろう、と思うこともあります。
それなのに相手は、私が考えもしない発言や行動をして、私はどうしたらいいだろうと頭を抱えてしまいます。相手に対しての怒りも覚えてしまいます。

これは、私の自己中心的な考えが原因なのでしょうか。
確かに、わがままを主張しているつもりはなくても、どうしても人は自分の尺度で物事をとらえてしまいます。他人はあくまでも他人で、その人にはその人なりの考えや、損得勘定があるのです。

そういう自分中心の考えを捨て去らなくてはいけないのだろうか、と考えたりもするのですが、例えば約束したことを相手が反故にしたり、以前話したことと言っている内容を変えてきたときなどは、やはり私としても譲れなくなってしまいます。
しかし、それだって結局は、私が自分の利益を守りたいだけなのかもしれません。相手も自分の利益を守りたいのは同じです。
ではどうすればいいのでしょう。
相手の主張にただ従えばいいのでしょうか。

私が仏のような人間であれば、それも可能かもしれません。
だけど、開きなおるつもりはないのですが、私も生活をしていかなければいけない、一人の人間です。なんでも相手の要求を認めていけば、自分を守ることができなくなってしまいます。

そういうことを考えていると、いっそのこと人との関りを無くしたほうがいいのではないか、とも思います。
この世の中で生きていくには、全く人との関りを無くすことはできません。仕事をするにも相手がいなければいけませんし、普段の買い物でさえ人とやり取りするわけです。
だけど極力、人との関りを無くして生活していくことは可能でしょう。
できるだけ人と接しない仕事を探して、人と関わらない日常生活をおくることを心がけるのです。
そういう生き方に変えていった方がいいのでしょうか。

だけど、それも違うと思うのです。
私はやはり、人との関りの中で生きていきたい。
それによって、他人と衝突が起きたり、我慢しなければいけないことが出てきたり、人から恨まれることもあるかもしれませんが、やはり、人との関りの中で生きていきたいと思うのです。

なぜでしょう。
人間は社会的な動物なのだ、人の輪に入りたいのも人間が持つ社会的な欲求なのだ、というのは一つの答えです。ですがその答え納得できないのです。なぜ私が、嫌な思いや、時には人を憎んでしまうような自分になったとしても、この人と関わりたいという欲求を抑えられないのでしょうか。

この答えは、今の私にはまだ見つかりません。この先、やはり人との関りは極力絶っていこうという気持ちになる時が来るのでしょうか。