残された人生の生き方を求めて

平均寿命まではまだまだですが、50代後半に差し掛かって、残された時間で、本当に知りたかったこと、そしてその答えを探していくなかで、お念仏に出会いました。私の考えたことや、その手助けになった本や体験を書いていきたいと思います。

初めて『浄土三部経』を読んで(その2・極楽浄土への憧れを持つこと)

浄土に生まれたい、そう願えばいいではないか、そのために阿弥陀仏誓願をたてて極楽浄土を作ったのではないか。
お釈迦様は、こう訴えかけているように私は感じました。

ですが、極楽浄土と言うのはどこにどのように存在しているのでしょうか。
阿弥陀仏はどこにどういう姿で、存在しているのでしょう。

私がこれまで本で読んで得た、まだ少ない知識で今思うのは、極楽浄土も阿弥陀仏も実在していないのではないか、ということです。
実在しないというのは、極楽浄土がどこかの島や大陸みたいに、または月や火星、遠くの星々のように存在しているのではない、ということです。阿弥陀仏もインドにいる誰々さんや、遠い天体に住む宇宙人のように存在しているのではない、ということです。

私はこれまで得た知識から、阿弥陀仏と極楽浄土は世の中の真理の象徴であり、煩悩から解き放たれた自由な世界のことを指しているのだと理解しています。
だけど自分で今書いておきながら、「世の中の真理」って何かと聞かれても、実はよく分からないのです。「煩悩から解き放たれた自由な世界」ってどんな様子なのか、どんな状態なのかと聞かれても、分からないのです。
だけどそういう世界はきっとある、いえ、あってほしいです。そうでなければ私は救われません。苦しみを抜け出して、そういう世界に生まれて、苦しみのない自分になりたいのです。

以前、「ミクロの世界と阿弥陀仏誓願」という記事で書いたのですが、ミクロの世界、つまり原子や素粒子の世界を認識することと、阿弥陀仏の世界を認識することは、似ていると思います。
あの記事は自分で書いておきながら、書き終わったときに「ああ、そうだな」と、自分自身で納得してしまったところがあります。 

ミクロの世界は色もなく形もよく分かりません。
そんなこと言われてもどんな世界か想像できないのですが、例えば陽子と中性子、電子をそれぞれ色分けされた球に見立てて、原子核の周りを電子がまわっている絵を見せられると、ああそうか、と納得できます。
ですが勿論、陽子も中性子も電子も、そんな色のついたボールではありませんし、地球が太陽の周りをまわるように、原子核の周りをくるくると球状の電子が回っているわけではないのです。

どういう姿をしているのかよく分からないミクロの世界です。だけど、色分けされた球を使ったモデルを見せられると、その構造は実感として理解できます。
「世の中の真理」「煩悩から解き放たれた自由な世界」はよく分からなくても、『浄土三部経』を読むと、阿弥陀仏と極楽浄土はこんな感じかなと想像できます。

(その1)に書いたように、『浄土三部経』のあらゆるところに、極楽浄土の荘厳な様子と、阿弥陀仏の偉大な姿が描かれています。これでもかというくらいに、阿弥陀仏の偉大な姿、極楽浄土の荘厳な様子が繰り返し書かれています。
それは、世の真理、そして煩悩のない世界を理解し想像できない私に「それはこんなに素晴らしんだ」と繰り返し繰り返し説明してくれているようです。

例えば浄土の描写では盛んに七宝が出てきます。金・銀・瑠璃・水晶…、それらで極楽浄土は彩られています。
ですが考えてみれば、金や銀は人間にとっては憧れの対象です。この世の人間たちが憧れて欲しがるものです。では全ての煩悩から解き放たれた者たちが集まる極楽浄土に、金や銀の存在は意味があるのでしょうか。ない気がします。
ではなぜお釈迦様は、繰り返し繰り返し金・銀などで作られた極楽の様子を説いたのでしょう。

この世の煩悩にとらわれている私たちに、強い憧れを抱かせるためだと、私は思うのです。
「こんなに素敵なんだよ」「ここに往きたいでしょう、往きたいと願えばいいんですよ」と語りかけているのではないでしょうか。

 


 

初めて『浄土三部経』に触れて感じたことを書いてみました。
今回は『全文現代語訳 浄土三部経』(大角修=訳・解説、角川文庫)を読んだのですが、いずれ他の訳文も読んでみたいと思います。
そしてまた、感じたことを書いてみたいと思います。その時はまた違った見方をしている気もします。
これだけ歴史があり多くの人に伝えられてきた書物なんです。数回読んだくらいでは私には理解しきれないでしょうから。