残された人生の生き方を求めて

平均寿命まではまだまだですが、50代後半に差し掛かって、残された時間で、本当に知りたかったこと、そしてその答えを探していくなかで、お念仏に出会いました。私の考えたことや、その手助けになった本や体験を書いていきたいと思います。

初めて『浄土三部経』を読んで(その1・繰り返される極楽浄土の素晴らしさ)

私のこれからの生き方を考えた時、一つの大きな指針となるのではと感じたのは、浄土の教えでした。
最初のきっかけは『歎異抄』です。もう十年以上も前に出会った本ですが、この1年ほどで、その内容が実感できるようになりました。そしてその後、関連する本を読み、講演、法話を聞きにも行きました。

そうするうちに、やはり一度『浄土三部経』を読んでみたいと思ったのです。
読んでも理解できないだろう、と考えていたのですが、読む必要があると感じてきたのです。当然、素人の私ですから、現代語訳でなければ駄目なのですが。

今回私が『浄土三部経』を読んだのは『全文現代語訳 浄土三部経』(大角修=訳・解説、角川文庫)です。他の訳本は読んでいないので、この本を読んでの感想、感じたことになります。
この本の良いところは、脚注を付けるという体裁はとらずに、本文の中に著者による説明文を組み込んでいることです。それによって、普通の書物を読む感覚で、すらすら読むことができます。

おそらく著者による意訳の部分もかなりあるのかもしれない、とは思います。古典を現代語訳にするには仕方ないでしょうし、その疑問を解決するには他の訳本も読んで、最終的には原本も読まなければ、となるでしょう。
ですが初めて『浄土三部経』に接するには、とても良い本を選んだのではないかと思います。

 


 

前置きが長くなってしまいました。

読んでまず感じたのは、極楽浄土や、阿弥陀仏無量寿仏)の描写が非常に多いことです。
私は読む前には勝手に、人としての生き方や、人間の抱える問題とその解決へと導く内容がたくさん書いてあるものかと思っていました。
ところが、浄土の素晴らしさ、阿弥陀仏の想像を超えた姿を、釈迦牟尼世尊が皆に説いている部分が多いのです。

例えば極楽浄土の様子についてならば、その浄土は大きな宝樹に囲まれている、その宝樹は金・銀・瑠璃などの七宝の花と葉におおわれている、大きな池がありやはり七宝でできている、その池には大きな蓮の花が咲き、その花弁の間は宝珠の玉で飾られている…。
言葉は悪いのですが、これでもかこれでもか、と言わんばかりに浄土の素晴らしさが語られています。

次に私にとって強く心に響いたところは『無量寿経・巻下』の釈迦牟尼世尊弥勒菩薩に、この人間界に生きる人々について話すところでした。
少し引用させていただきます。ここで出てくる国土とは阿弥陀仏が作り上げた極楽浄土のことです。

この仏の国土は往きやすいところです。それなのに、往生できる人は少ないのです。
その国には信ある者はどんな人でも、かの仏の力が自然に牽くことによって、間違いなく迎えられるのです。あなたがたはどうして、俗世のことを捨てず、努めて仏道の徳を求めないのでしょうか。
その国では、きわめて長い寿命を得て、幸福に暮らすことができます。それなのに世の人は、軽薄にも不急の事(現世のかりそめのこと)で争っています。

この後も、お釈迦様の話は続きます。

人は世間愛欲の中にあって、独りで生まれて独りで死にゆきます。独りで世を去り、独りで世にやって来ます。
そこは苦の世界なのか楽の世界なのか、どこに行くかは自分自身が受ける報いであって、代わってくれる人はありません。
(中略)
それなのに、あなたがたはどうして、世間愛欲の事にとらわれ、世俗の営みを捨てようとしないのでしょうか。それぞれ強健のときに、努めて善を修し、精進して苦の世間からの解脱を願えば、愛欲を滅した涅槃(静かなさとり)の世界で長い寿命を得られます。それなのに、どうして仏道を求めないのでしょうか。

阿弥陀仏が私たちを迎え入れるために極楽浄土を作り上げた。そこへ行くことをなぜ、あなたたちは願わないのですか、とお釈迦様は続けて訴えるのです。
私には「なぜなんだ。なぜ、浄土に生まれたいと強く願わないのか」というお釈迦様の必死の声のように感じられるのです。

長くなるので(その2)に続きます。