残された人生の生き方を求めて

平均寿命まではまだまだですが、50代後半に差し掛かって、残された時間で、本当に知りたかったこと、そしてその答えを探していくなかで、お念仏に出会いました。私の考えたことや、その手助けになった本や体験を書いていきたいと思います。

ある元衆議院議員の死

このブログは私の考えたことをまとめていこうと思って始めたので、時事的内容や日記的な内容は書くつもりはありませんでした。
ですが、つい昨日、自殺について思うことを記事にまとめてアップしたあとに、ある元衆議院議員の死のニュースを知りました。 
まだ自死と断定されたわけではないようですが、おそらく自殺だろうということです。たまたま自殺の記事を書いた直後なのでびっくりして、とても痛ましい気持ちに襲われて、今の思いを書き留めておこうと思いました。


私はその元議員さんを全く知りませんでした。ニュースからの経歴しか知らないのですが、まず思ったのは「なぜ!」ということです。
ニュースで紹介されていた内容では、家柄もキャリアも良く、現在は議員ではなかったにしてもそれなりの暮らしはしていて、人脈もあるようなのです。それなのに死を選んだ…。

私の知らない事実も沢山あるでしょうし、人に知られていない何かがあったのかもしれません。そもそも私自身も記事に書いたように、その人の置かれた状況だけをみて、自殺する必要がなかったなどと言えるはずないです。
それでも「なぜ!」という思いがこみ上げてきます。
私から見て全然問題のない状況に見えるのに死を選んだ。それでも死を選ばなければいけなかったその方の最後を迎える時の心を思うと、全く知らない人なのに胸が苦しくなります。

前回の記事で、死ぬことによって極楽浄土に生まれることができるなら、早く死ぬ、つまり自殺をすることがいいのだろうか、と問題提起をしました。
この問いの答えはまだ見つかっていません。ただ私自身は自殺はしない、そしてその理由を前回書きました。

自殺をした人たちの死を迎えた時の気持ちは知るすべもありません。だから私が想像し推測するしかないのですが、喜んで自殺を選ぶ人はいないのではないか、と思うのです。
自死を選ぶ人たちのうち、どれだけの人が極楽浄土を信じていたかは分かりませんが、仮に信じていたとしても、「ああ、お浄土にいけるんだ」と笑顔で自殺をしたのでしょうか。
遠足に行く子供のように、わくわくした気持ちを抱えて自殺をするのでしょうか。
そうではなく、涙も枯れて途方に暮れて、死を選択するのだと思うのです。

本当は生きていたいのに生きていく道がみつからず、生きていくことと死を比べて、死を選んだのではないかと思います。
生きていける道が見つかれば、きっと生きたかったのではないでしょうか。
死ねば極楽浄土に行ける、という思いからの死ではありません。すばらしいところに行ける、楽しいところに行ける、そういう思いからではないでしょう。
極楽浄土を信じていない人たちも、喜んで自死を選んだわけではないと思います。
そして、そのように自死を選ぶ人たちの心を思うと、私も辛く悲しく押しつぶされそうになります。
自死はして欲しくないのです。私もしたくありません。こんな悲しいことはないじゃないですか。

浄土の教えから自死を明確に否定してほしい、私はこう書きました。
またよく考えて、自分なりの答えを見つけていきたいと思います。