残された人生の生き方を求めて

平均寿命まではまだまだですが、50代後半に差し掛かって、残された時間で、本当に知りたかったこと、そしてその答えを探していくなかで、お念仏に出会いました。私の考えたことや、その手助けになった本や体験を書いていきたいと思います。

六道に思う ~阿満利麿先生の講演を聞いて~

前回の記事で、阿満利麿先生の講演を聞いて、自殺に関することを書きました。その中で、六道輪廻について触れて、果たして私は「輪廻」や、地獄や餓鬼などの「六道」を信じているのかという、自分自身の疑問も書きました。今回はそれについて、やはり先日の阿満先生の講演を聞いて感じたことを含めて書きたいと思います。
前回記事の続編みたいなものです。

 

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私が度々、阿満先生の本や講演を題材にするのは、先生はお話の中で、素人の私が、素人なるがゆえに持つ疑問に触れてくれることが多いからです。
「そうそう、それが不思議だった」「そこが引っかかってた」というところに、阿満先生の話は触れてくるのです。

先日の講演では、先生が最近手掛けられている仕事、『往生要集』という書物の話が出ました。
そこには、こういう罪を犯したらこういう地獄、というように、細かく地獄の種類やその様子が書かれているそうです。
その話の中で、地獄の時間というのは私たちが人間である時間に比べると、非常に長い、という話がでました。それは私が『浄土三部経』を読んで感じていたことだったので、「確かに」と頷いてしまいました。
浄土三部経』には、人間界以外の地獄などにいる時間は、私たちの一生に比べると、とてつもなく長い時間で現わされています。それに私は驚いていたのです。あまりにも大げさすぎるのではないかと。荒唐無稽すぎないか、と感じていたのです。

ですが、なぜこのような荒唐無稽な物語が、長い間に消えてなくなることもなく伝えられてきたのでしょうか。

私たちに災いが降りかかった時、「なぜ私が」という不条理な思いにかられます。
先生はお話の中で、人はどこから来て、どこに去っていくのか、なぜ私がこんな苦しまなければいけないのか、それらの出来事に対して納得するためには、「大きな物語」が必要になってくる、とおっしゃいました。この「大きな物語」という言い方は、先生のお話の中で度々使われます。
経典を読んでいると、荒唐無稽と思える話は沢山でてきます。それが「大きな物語」ということでしょう。

六道という世界があるとしたら、この人間界は他の地獄や餓鬼などに比べてとても短いものです。そして、真実の教えに出会えるのは人間でいる間だけです。『浄土三部経』の中でも、仏の教えを聞くことができるのは稀なことだという意味のことが、繰り返し書かれています。

私は、科学的に正しいのか、論理的に正しいのかわかりませんが、この「大きな物語」を信じてみたいと思うのです。
私が果たして長い間、六道を巡ってきたのか分かりません。何しろ生まれる前のことは覚えていないのですから。
ですが、長い長い時間の中で、今、人として生きているのは本当に一瞬であることは納得できます。その短い人としての生の時間に、本当の生き方を知りたいと願う時、この「大きな物語」を信じてみたいのです。

元来私は、バリバリの理系人間で、理屈っぽいタイプでした。昔の友人が、今私がこのような文章を書いているのを読んだら、「ああ、あいつも大変な思いをして、とうとう宗教に走ったか」とか思われるかもしれません。
ですが今、私にとって生きていく中で一番大切と思われる問いに気づき、その答えを探す出発点に、巡り巡ってやっとたどり着いた気がするのです。