残された人生の生き方を求めて

平均寿命まではまだまだですが、50代後半に差し掛かって、残された時間で、本当に知りたかったこと、そしてその答えを探していくなかで、お念仏に出会いました。私の考えたことや、その手助けになった本や体験を書いていきたいと思います。

自殺では解決できない事 ~阿満利麿先生の講演を聞いて~

先日「日本仏教鑽仰会」主催の阿満利麿先生の講演会に行ってきました。阿満先生の講演を聞くのは二度目になります。演目は「『教行信証』に学ぶ」でした。

教行信証』についての話がメインですが、むしろそれ以外のお話が多く、印象に残る話もたくさんありました。講演の記録というより、私が特に印象に残ったことを、書き留めたいと思います。

講演も終わりに近づいたころ、「自殺」についての話がありました。
メインテーマではなかったので、それほど詳しく話されたわけではないのですが、以前私は自殺について思うところを記事にしたこともあり、このような講演や法話で自殺のことを聞くのは初めてだったので、とても印象的な話でした。 

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先生は、ある美男のお坊さんの話をしてくれました。
とても美男のお坊さんがいて、女の人から非常にもてた。たくさんの女性に言い寄られたが、結局そのお坊さんは自殺してしまった。
それを聞いたある人は、自ら煩悩を消すために死を選んだんですね、と感心するような言い方をしたそうですが、阿満先生は、この自殺は問題をペンディングするだけだと考えました。自殺では根本の問題は解決できないのだ、と言うのです。
そのお坊さんは、この後も六道をめぐるだけであり、六道を輪廻する間にまた自殺をするだろう、せかっく人間に生まれてきて仏道を歩み、仏になるチャンスを放棄してしまったのだ、と先生は言います。

私は以前の記事で、阿弥陀様の誓願を信じることができたならば、早く死ねば早く極楽へいけるのでは、という疑問を書きました。
ですが、その後も考え続けてきて、今回の阿満先生の講義を聞いて思いました。
果たして本当に自分は阿弥陀様を信じ切ったのだ、極楽浄土を信じているのだと、自分で言うことができるのでしょうか。自分が信じているんだから、間違いなく信じているんだよ、というのが普通の考えかもしれません。私もそう考えないわけではないのです。

ですが、自分の心のすべては、自分では分からないのではないでしょうか。
本当は信じているポーズをしているだけなのかもしれません。救われたい、今の苦しみから逃れたい、というのも一種の我欲ならば、その我欲から、阿弥陀様を信じているポーズを無意識のうちにとってしまっている可能性は十分にあると思います。

本当は信じ切れていないかもしれないのに、自殺をしてしまうのは、阿満先生の言うように、何の解決にもならず、今後も六道をめぐり、自殺を繰り返すだけになってしまう気がします。

では、どうすればいいのでしょうか。以下は私が考えたことです。

人間に生まれてきたことは、仏道を歩む大きなチャンスです。そのチャンスを、人間である寿命が続く限り生かせるように、日々過ごすしかない気がします。
まだ死ねない、まだ死ねない、と生きていくのです。
そして本当に死を迎えたときに、どうなるのか。その後のことは自分の計らいではないのでしょう。自分の意志で、どこかの世界に行けるわけではないです。それは自分の意志とは関係なく、今の人間界に生まれてきたことと同じです。

今私は、六道を輪廻する、と書きました。
私はこの六道、つまり地獄や畜生の世界を信じているのか、ということですが、そのことについても、今回の阿満先生のお話で印象に残るところがありました。
これ以上は長くなってしまうので、また記事を改めて、阿満先生の講演を聞き、考えた、六道の話も書いてみたいと思います。