残された人生の生き方を求めて

平均寿命まではまだまだですが、50代後半に差し掛かって、残された時間で、本当に知りたかったこと、そしてその答えを探していくなかで、お念仏に出会いました。私の考えたことや、その手助けになった本や体験を書いていきたいと思います。

音楽を楽しむ心

私は若いころから音楽が好きでした。自分ではピアノ・キーボードを弾き、実は若いころはプロミュージシャンを目指して、実際に音楽関係の仕事をしていたこともあるのです。もちろん、そんなに大きな仕事を経験したわけではなく、歳をとるにつれて次第に音楽からは離れていきました。

若いころは常に音楽が無くては生活できないくらいだったのですが、さすがに今は時々聴くぐらいです。ですが、音楽が好きなことは変わりません。
今でもYoutubeなどで、好きなミュージシャンのライブ映像を見たり、CDで好みの音楽を聴くと、心が浮き立ち、何か熱い気持ちが沸き上がってきたり、又はしみじみとした気持ちになり、切なくなったりします。

ですが、これは本当の喜びなのか、本当の楽しみなのか、音楽に感動することは、実は忌むべきことではないのか、と最近考えてしまうのです。
何かに感動し、心が高ぶった状態というのは、決して好むべき心の状態ではないのではないか、と考えてしまうようになったのです。

確かに、大きな感動があった後には、私の場合、必ずと言っていいほど、徒労感や深い虚脱感に襲われます。これは若いころからそうでした。
「祭りの後の寂しさ」、とでもいうのでしょうか。それを打ち消すために、さらなる感動を求めて、もっともっと熱くなれる何かを求めてきたような気がします。

感情が大きく高まれば、その反動が起こることも当然かもしれません。その反動が起きたときに、苦しい気持ちになることもあります。そして、それを打ち消そうとして、さらにもがき苦しみ、さらなる感動を得ることに成功したとしても、その反動はさらに大きなものになっている、そんなことを繰り返してきた気がします。

音楽なんて聴かなきゃいいじゃないか、と考えたりします。
ですが、音楽を聴いて感動することは、いけないことなのでしょうか。
心を揺れ動かすことは、同時に辛さや苦しみも生み出す種になる、ということを、今の私は実感しています。それでも、音楽を聴くことは楽しいし、それを避けるべきなのでしょうか。

ここでまた『浄土三部経』からの話になってしまいますが、極楽浄土には、風や、水面の波や、木々の間から、この上ない音や音楽が流れてくるといいます。
おそらく、その音楽を聴くと、心地よさしか生まれないのでしょう。
ですが、この世の音楽には心地よさを感じると、その陰に、その反動でいずれ気持ちが下がってしまう時がすでに準備されているのかもしれません。

この世の中の音楽とは、そういうものなのでしょう。それは、不安定で未成熟な「私」という存在に根差しているからに他ならないと思います。
そして極楽世界の最上の音楽は、私には全く想像もできません。永遠の心地よさしか生み出さない音楽、そのような音楽は、今この世に生きている私には考えられません。
ですがやっぱり、この世で私は音楽を聴くことから離れられないと思います。若い時ほど、常に音楽に囲まれている必要はなく、歳を重ねるにつれて、むしろ音楽のない時間の良さも感じるようになってきたのですが、それでも好きな音楽からは離れられないでしょう。

これも凡夫ならではなのかもしれません。
毒になるかもしれない、と分かっているのに、美味しいから食べてしまう。それが私と音楽との関係なのでしょう。