残された人生の生き方を求めて

平均寿命まではまだまだですが、50代後半に差し掛かって、残された時間で、本当に知りたかったこと、そしてその答えを探していくなかで、お念仏に出会いました。私の考えたことや、その手助けになった本や体験を書いていきたいと思います。

正しいと思う行いをすること

自分が正しいと思った行いをする。いけないことだ、と思うことはしない。
そうすれば、胸を張って生きていける。
自分のしたことが評価されなくても、報われなくても、きっといつか理解してくれる人は現れてくれるはずだし、何より、自分自身が堂々と生きていけるではないか。
そうして胸を張って、凛として生きていこう。

それが、若いころから、まだ10代のころからの私の考えでした。

ですが、その生き方が大きく揺らぎました。
その生き方、考え方は間違ってたのではないか、ということです。
いえ、「間違っていた」というのは正しい言い方ではない気がします。
何と表現すればいいのでしょう。
自分が正しいと思ったことを行う、よく考えて、正しいと思ったらば、それを貫き通す。
それは間違えではないとは思うのですが、「正しくはない」と、今は感じます。

 

歎異抄』の中には、印象深い言葉がたくさん出てくるのですが、その中でも、特に強いインパクトを与えられたところがあります。

聖人のおほせには、善悪ふたつ、総じてもて存知せざるなり。そのゆへは、如来の御こゝろによしとおぼしめすほどに、しりとをしたらばこそ、よきをしりたるにてもあらめ、如来のあしきとおぼしめすほどに、しりとをしたらばこそ、あしさをしりたるにてもあらめど、……

(現代語訳=親鸞聖人は、「善悪の二つについては、私はまったくわきまえるところがありません。なぜならば、阿弥陀仏がよいと思われるほどに、よいことを徹底的に知っているのであればこそ、善を知ったということになるのでしょう。また、阿弥陀仏阿が悪いとお知りになるほどに、悪を知り尽くしているのであればこそ、悪を知ったということになるのでありましょうが、……)

歎異抄』阿満利麿=訳・注・解説 ちくま学芸文庫 より

 私が正しいと思っていることは、実は違うのかもしれない。逆にいけないことだ、と思っていることでも、良いことがあるのかもしれない。実は私は、良い・悪いを判断する力など、そもそもなかったのではないか。
この『歎異抄』に書かれた内容は、私にとって非常に納得のできるものであり、大きな気付きを与えてくれました。

私は、自分が正しいと思う行いをすることを、ある意味心の支えにして、自分を励まして生きていたところがあります。
ですが、その善し悪しの判断自体が無効だったのでしょうか。もちろん、自分で善悪の判断をするときは、よく考えて行動をしてきたつもりです。ですが、どんなに考えても、自分は自己中心的な視点からは逃れられないのです。
そして、自分が正しいと思うことを貫くことによって、独りよがりのヒロイズムに浸っていた気がします。
そういう自分に気が付かされた、非常に重みのある一文でした。

 

しかし、私自身が善悪を知らないとしたら、いったい何を規範にして生きていけばいいのでしょう。
日常の小さなことに至るまで、自分が「良い」と思うことをするのは、ある意味当たり前です。
その良い・悪いの基準が、自分の中に求めることができないとしたら、私はどのようにすればいいのでしょうか。
この『歎異抄』の一文を読んで、自己の善悪判断の不確かさに気づかされた時は、自分はどう行動し、生きていけばいいのか迷いました。
自分の中の善悪判断を放棄しなければいけないのでしょうか。

 

しかし、そこまで極論に行きつかなくてもいいのではないか、と最近は思うのです。
自分のしていることは、自分で「良い」と思ってしている。あえて自分が「悪い」と思うことなどできるわけないのです。
ただ、自分が「良い」と思う行動をして、日々暮らしてはいるのですが、それは本当に「良い」ことなのか、本当のところは分からない。そういうことを、心のどこかに留めておくしかできないでしょう。
さらに考えてみると、「留めておくしかできない」のではなく、「留めておくことができる」のではないでしょうか。
それをするだけでも、少しは「よい生き方」につながるのではないか、と思うのです。

 

私は、自分が正しいと思うことを曲げずに貫き通せば、胸を張って生きていけると考えてきました。
それは、時に自己中心的な凝り固まった考えに陥り、人間関係に問題を起こし、困難を巻き起こし、それにより自分も苦しんできました。
そして、自分は不完全な人間だ、ということも分かってはいたはずなのに、それは言葉の上だけの認識に留まり、結局、その自己の不完全さを、深いところでは理解できずにいました。
さらに、「自分は正しいことをしている」という自己意識によって、一種のヒロイズムに浸ってしまう、そういう危うい道を歩んできた気がします。

この「自分が正しいことをしている」と自分で感じることは、私の生き方のようなものでした。
そこから少しでも抜け出せるのであれば、私にとっては多少であっても、新しい、よい生き方に近づけるのではないか、と今は思えるのです。