残された人生の生き方を求めて

平均寿命まではまだまだですが、50代後半に差し掛かって、残された時間で、本当に知りたかったこと、そしてその答えを探していくなかで、お念仏に出会いました。私の考えたことや、その手助けになった本や体験を書いていきたいと思います。

お金

お金というのは、本当に恐ろしいものだと思います。

世の中の起こる様々な事件、トラブル、悲劇的なできごとのほとんどには、お金が関係しているのではないでしょうか。
私は歴史の専門家ではないので、あくまでも私の知る範囲での想像ですが、戦争の原因も金銭によるものが大きいのではないかと思うのです。
民族間の争い、宗教に関する争い、政治的信条による違いの争い、色々あると思いますが、根本にあるのはお金ではないでしょうか。
他国を攻めること、つまり土地を得ることは、すなわちお金につながります。人を支配することもそうです。

個人間での争いでは、恋愛に係ること、つまり愛欲も大きな原因だと思いますが、殺人までも犯してしまう個人間の争いには、愛欲と並んで金銭が大きな原因となりことが多いと思います。

そして、このお金というものは、昔から人間にとって大きな存在であったことを知ると、お金を巡る悩み、トラブル、争いなどの悲劇は、どんなに人類が進歩しようと無くならないのでしょう。

最近は経典なども読んでいる中で、例えば祇園精舎の逸話などを知りました。
お釈迦様の時代のインドで、スダッタという富豪がお釈迦様に僧園を寄付しようとしました。そのスダッタが見つけた土地はジェータという王子の所有する土地で、ジェータは土地に金貨を敷き詰めればスダッタに譲ると言ったそうです。そうしたら、本当にスダッタは金貨を敷き詰め始め、結局ジェーダもスダッタとともに、お釈迦様に僧園を寄付して、それが祇園精舎と呼ばれたという逸話です。

私が驚いたのは、話の本筋とは違うのですが、金貨という存在がその当時にすでにあったこと、そしてしっかり「富豪」という存在もあったことでした。

無量寿経』の中にこうあります。

身分の高い人も低い人も、貧しい人も富める人も、年若い人も年長の人も、男も女も、ともに金銭と財に憂えています。財のある人もない人も憂え、思い悩むことは同じです。
世の人びとは屏営とうろたえて愁苦し、来し方・行く末をむやみに案じて、不安をつのらせています。
世の人びとは、自分の欲心に走り使われて安らぐときがありません。
(『全文現代語訳 浄土三部経』大角修=訳・解説)

すでに、金銭による問題はこのころから起こっていたことに、私はまず驚きます。

さらに調べると、お金自体はもっと古い時代に出現しているらいしのです。
すでにお金が生まれて二千年は確実に過ぎ、三千年近くたっているようです。
これだけ長い間お金が存在し、なお現在でもお金を原因とする争い、悩みや苦しみが解消していないのならば、これはもう人類にとっては未来永劫に解決不能なことではないでしょうか。

そうして自分自身を振り返ると、私自身もお金のことで悩んだり、苦しんだり、また人を恨んだり、腹を立てたりすることが多いのです。お金があれば解決すると思える問題はとても多く、お金があれば心が安らぐように思えます。
お金があれば、ほとんどの苦しみや怒りの心も、私の中から無くなるのではないか、とこれまで何度も思ったものです。

ですが、『無量寿経』に説かれているように、お金があるないに関わらず、みなお金のことで憂え悩んでいるのだとしたら、いくらお金を得ても、心の安らぎは得られないということなのでしょうか。
ましてや、そのお金を原因とした様々な問題や苦しみは、人間が何千年もの間抱えていたのであるならば、それはもう、お金で解決することは不可能ではないでしょうか。

私には、お金があれば解決できる問題がほとんどに思えていたのですが、そうではないのかもしれません。
それは私が実際にお金持ちになれば、はっきり分かることかもしれませんが、この年齢で今からお金持ちになることは不可能でしょう。
ですが、だからといってこれからずっと「お金があれば…、お金さえあれば…」という思いにかられて生きていくのも、想像すると、寂しく悲しく、つらい生き方にも思えます。

では、お金があっても心の安らぎは得られないのだ、と考えてみたらどうでしょう。
人類の歴史を見ても、お金が元の争いは何千年という時が過ぎても無くなりません。今でもお金を巡って人は争い、時には殺人さえも起こします。
そして、その事実を裏付けるかのように、「財のある人もない人も憂え、思い悩むことは同じ」と書かれた『浄土三部経』が、これもまた長い間伝えられ、今も残っているのです。
争いをなくすこと、人を恨む心、怒りの心から離れ、安らぎを得ること、それらはきっと、お金を得ることでは実現できないのでしょう。
そして、「お金では解決できないのだ」という認識から出発し直せば、心の安らぎを得るための新しい道を見つけることができるかもしれません。