残された人生の生き方を求めて

平均寿命まではまだまだですが、50代後半に差し掛かって、残された時間で、本当に知りたかったこと、そしてその答えを探していくなかで、お念仏に出会いました。私の考えたことや、その手助けになった本や体験を書いていきたいと思います。

布施行について

前回、お金について書きました。
それに関連して仏教でいう布施について、思うところを書きたいと思います。

布施とは仏教では大切な行なのだ、という知識は、以前から知っていました。ですが、なぜその行をするのかよく分からず、結局「布施」とは法事の時にお坊さんに渡すお金のことではないか、ぐらいに私は思っていたのです。
だから「布施」という言葉には、何となく良い印象を持っていませんでした。お坊さんに払わなければいけないお金、というわけです。

ですが、この一年ばかり仏教関係の本を読み、考えているうちに、布施という行為はどういう意味があるのか、気になってきました。

歎異抄』の第十八条です。

道場や寺院に寄進する金品が多ければ大きな仏になり、少なければ小さな仏になるという主張は、言語道断であり、様々に道理にあわないことです。
(中略)
金品の寄進は、たしかに仏教の枢要な教えである「布施」行に相応するといえます。しかし、どんなに宝物を仏に捧げても、また師匠に施しても、本願に対する信心が欠けていますならば、私どもには救いとはならないのです。
(『歎異抄』阿満利麿=訳・注・解説 ちくま学芸文庫

この第十八条では、たくさんの寄付をすればするほど大きな仏になれるという説が広まっているのを、否定し戒めています。そして、信心がなければ、いくら寄付しても意味がないと訴えています。
これは、お坊さんに法事を頼むとお金がかかる、というような私の考えをひっくり返すような内容でした。
寄付すること、つまり布施は、仏教では大切な行である。だけど、まず大切なのは「お金ではないんだ」と言っています。

一方で訳者である阿満先生は、この第十八条の解説でこう書いています。

ただ、あえて付け加えておきたいことがある。それは、布施という行為の重要性である。布施は、人間の自己執着の度合いを自ら知ることのできる、ほとんど唯一の教えであろう。人に布施することによって自分がどの程度の人間であるかが分かる。

これを読んでから、私は布施というものに対して、それまでとは違った見方が必要なのではないかと考えるようになりました。布施とは何なのでしょう。

そしてその後『無量寿経』に出会ったら、そのなかにこういう記述がありました。
巻上のまだ初めのあたりに、菩薩が仏(ブッダ)になり人々に教えを説く場面が書かれています。

ブッダ釈迦牟尼世尊が旅をしたように、人びとの国におもむいて托鉢し、食物の布施を受けることによって人びとが功徳を積めるようにし、幸福の育つ田、すなわち福田となります。
(『全文現代語訳 浄土三部経』大角修=訳・解説 角川ソフィア文庫

驚くのは、ブッダが布施を受けるのは、与える人に功徳を積ませるためだというのです。ブッダのために布施をするのではありません。布施を与えるその人自身のために、人々は施すのです。

しかし、いざ他の人に施しを与えようと考えると、大きく二つの問題が私には浮かんできます。

まず一つ目は、どこの誰に施せばいいのでしょうか。
お寺や教会でしょうか、ユニセフでしょうか、街頭募金でしょうか。いずれにしても、せっかく寄付したのならば、有効に使ってもらいたいですから、しっかりした団体や、本当に困っているところに寄付したいものです。
しかし、ふと思いました。
「有効に使ってほしい」など、私が考えることではないのかもしれない。
誰の手に渡ろうと、どう使われようと、自分の持っているものを分け与えるのが大切なのかもしれません。悪い人に渡って、その人の道楽に使われても、その人の役には立ったわけです。そもそも、以前書きましたが、何が善で何が悪なのか、私には分からないわけです。「本当に困っている人」とはどういう人なのかも、私には分からないのです。
ここに寄付するとよくない、あそこに寄付するのは不安だ、そういう思惑も超えるべきものなのかもしれません。

そして二つ目、「もう少し収入が増えたら寄付しよう。今はまだその余裕がないから」という考えも、今の私の中にはあるのです。特に今の私は、経済的には確かに苦しい状況ではあります。
では私はいったい、どこまで収入が増えたら、どこまでお金がたまったら寄付するつもりなのでしょう。今だって苦しいといっても、パソコンやスマホは持って、ブログも書くことができている訳です。

誰に布施するか、どれくらいをいつ布施するか。
布施について考えると、まさに阿満先生が書かれているとおりに、私の自己執着の度合いが、見事に見えてきてしまいます。
ですが、いまだに自己執着が強い私でも、それでも何か人のために施したい、と近頃は思い始めています。このような思いが浮かんだのは、生まれて初めてかもしれません。まだまだ道は遠いのかもしれませんが。