残された人生の生き方を求めて

平均寿命まではまだまだですが、50代後半に差し掛かって、残された時間で、本当に知りたかったこと、そしてその答えを探していくなかで、お念仏に出会いました。私の考えたことや、その手助けになった本や体験を書いていきたいと思います。

「縁」という考えがもたらしてくれたこと

仏教には「縁」という言葉がよく出てきます。
「因縁」「業縁」「縁起」など、「縁」はひとつのポイントになっている気がします。
そして、今の私は「縁」というものを強く実感しています。

この記事を見てくれた人には「縁」についてよく知らない人もいると思います。少し説明しなければ、と思うのですが、私がよく取り上げさせていただいている、阿満利麿先生の本に、大変分かりやすい説明があるので、少し引用させていただきます。

「因縁」の「因」は、直接的な原因を意味します。それに対して、「縁」は間接的な原因を指します。(中略)
深酒をして翌日頭が痛いという時、頭痛の原因が昨夜の深酒にあることはよく分かりますし、深酒が頭痛の直接的原因であることは、疑う余地はありません。しかし、どうして深酒をしなければならなかったのか、をふりかえると、仕事が順調に運ばなかったことや、人間関係に面白くなかったことがあったことなど、つぎつぎと思い浮かぶでしょう。しかし、仕事が順調に運ばなかった原因は、というとこれもまたいろいろです。(中略)
その間接的原因の大海をすべて知り尽くすことは、普通の人間にはできないことはいうまでもありません。

『人はなぜ宗教を必要とするのか』阿満利麿=著 ちくま新書

現在の私は、仕事やプライベートでも、経済面でも、はたから見ればドン底状態だと思います。この一年以上の間、なぜこうなったのか、考えたくなくても考えてしまう毎日でした。

その中で思いました。
私は後悔をしているのだろうか。できればもう一度やり直せたら、と考えているのだろうか。
過去の失敗に納得している訳ではありません。今に満足している訳でもありません。ですが「後悔」とは違う感じがあることに気が付きました。
「後悔」が起こるならば、やり直したい思いも起こるかもしれません。やり直した場合を想像しなかったわけでもないのですが、やり直したらどういう道を歩んだのでしょうか。

例えば、私のある発言が、今回ドン底状態を作った一つの原因だったとしましょう。しかし、なぜその発言をしたのか。それは、その発言を誘発させた周りにも原因があるでしょうが、当然私自身にも原因はあります。
それは、私の考え方だったりします。言葉遣いの問題だったかもしれません。では、なぜそういう考え方をしたり、言葉遣いを私はしたのでしょう。
それは、私の生まれ育ちにさかのぼらなければいけないでしょう。私の生まれ育ちというと、私の父母やをはじめとする様々な人の存在があります。
その中でも身近だった母を思うと、ではなぜ母はそのように私に接して育ててきたのか、になります。そうなると、もう母の生まれ育ちにさかのぼり、さらに祖父母にさかのぼります。結局、原始人のころまで、さかのぼらなければいけないのでしょうか。
母親一人に関する原因を突き止めることすら不可能です。ましてや、その他の原因も含めたら想像を絶します。

そう考えると、この人生をやり直したとしても、自分では全く把握できない「縁」にからめとられている限り、自分が期待するような人生にはならないのではないか、結局また同じような結果になるのではないかと思えるのです。
今、このようなドン底状態の原因が結局何だったのか、私には分からないわけですから、後悔の起こりようもないのです。

しかし、それは一種の運命論なのでしょうか。「仕方がないからあきらめろ」ということなのでしょうか。
実は阿満先生は著書の中で、その点にも触れています。ですが、話が広がりすぎるので、ここでその詳細に触れるのは避けておきます。

ただ、今の私はこう思います。
あらゆる「縁」にからめとられた私でも、まったく自分の意志が効かないわけではありません。「縁」の中で翻弄されていく私でも「意志」はあります。
ですが自分の「意志」だけで自分の生き方が決められている訳でもない、つまり私にはとても知ることのできない「縁」の存在があるのも事実です。
そして「縁」を意識して生きることは、今の苦しさから私を救い上げて、少し楽な気持ちにしてくれている気がするのです。
それは「私のせいではない」「仕方がなかった」という一種の運命論とは違います。

その一つの理由は、「縁」の存在を知ることで、私の中から「後悔」が起きないからだと思います。
私は元来、負けん気が強く、後悔することは自分の負けを認めるように感じ、意地でも「後悔」ということを避けてきた気がします。でもそれは、自分をつらくするだけの意地でした。
ですが先ほど書いたように、「縁」を考えるようになってから、今は自然と後悔が起きないのです。「後悔」が起きないのは、自分では分からない「縁」の存在があり、やり直したいという考えから自然に離れさせてくれたからだと思います。

自分では分からない「縁」がある。その存在を知ったことで、私は随分救われている気がします。
そして、その私が知り尽くすことができない「縁」を全て知っているのは、人が及ばない智恵を持つ絶対的な存在、「仏」ということなのでしょうか。