残された人生の生き方を求めて

平均寿命まではまだまだですが、50代後半に差し掛かって、残された時間で、本当に知りたかったこと、そしてその答えを探していくなかで、お念仏に出会いました。私の考えたことや、その手助けになった本や体験を書いていきたいと思います。

自分の欲深さ

私も色々なことをこのブログで書いてきました。
少し読み返すと、「随分、偉そうだな」と自分で恥ずかしくなる記事もあったりしますが、これも一つの記録なので消さないで残しています。

偉そうなことも書いているくせに、相変わらず欲深くダメな自分を痛感する出来事があったので、反省も含めて書いておきます。

私の手元に、何年か前に買った生活雑貨が何個かあります。贈答用にまとめ買いしていたものが余ったのです。
定価は2万円近くするもので、なかなか良い品なんです。

私が持っていても使う予定はないですし、かといって捨てるのはもったいないので、某フリマサイトを利用して売ることにしました。
2万円近くしたのですが、もう買って何年もたつので、5千円ほどで値をつけました。
私は、5千円では売れないと思いました。いくら元が高い品でも、未使用とはいえ中古品ですから、5千円で買い手がつかなければ値下げしようと思ってました。

ところが、出品した後、2~3日の間に、購入希望者が数名現れ、しかもその内の2名はすでに入金してくれていたのです。
私は喜んで、配送の準備を始めました。こんなによく売れるなら8千円からスタートすればよかった…なんて思いながら。

発送するために、もう一度商品に傷はないかチェックしたところ、なんとその商品全部に、シミらしきものが見つかったのです。
フリマサイトに乗せる時に、写真も掲載したのですが、写真では分かりません。私もその時まで全く気が付かなかったのですが、明らかに保存状態が悪かったためのシミでした。

これはまずい、と思った私は慌てました。
そもそも私は、こういうフリマサイトに不慣れなため、サイト管理会社にどうすればいいか問い合わせました。なにしろもう、支払ってしまった人がいるのです。おそらく、クレジットカードの決済でしょう。その人たちには、手数料なども含めて全て返金されなくてはいけません。

キャンセル方法、返金のしくみなどを確認して、購入者の方にキャンセルのお願いをしました。
ある人は、多少シミがあっても譲ってほしいと言ってくれました。またある人は、値下げして売ってもらえないか、と言います。何人かの人と何度かメッセージのやり取りをしました。
ですが、結局すべての人にお詫びしてキャンセルしてもらいました。

もう、そこまでのやり取りで私は正直疲れてしまったのです。
その数日間は、売れたときの「やった!」という喜び、「もう少し高くてもよかったかな」というちょっとした後悔、シミが見つかってからの焦りとドタバタ、購入しようとしてくれた方たちには本当に申し訳ないのですが、私はもう疲れてしまったのです。

これも私が、お金が欲しい、できれば少しでも多く欲しいと考えていたからです。
そんなこと考えて行動することが、結局自分の苦労に跳ね返ってくることは、この一年考え続けて分かっていたはずなのに、です。

さんざん『無量寿経』のことも書いてきたのですが、その『無量寿経』には、世のあり様が、しっかりこう書かれているのです。

こうして憂え、苦しみ、物を求めようとしても、思いどおりに得ることはありません。思案しても益なく、心身ともに疲れて起居ともに安らぎなく、憂いと思惑がからみあって苦悩を増していきます。
『全文現代語訳 浄土三部経』大角修=訳・解説 角川ソフィア文庫

結局、私の手元には処分できない生活雑貨が残りました。どこかに寄付するか、知り合いに声をかけて譲ってしまうか、思案中です。

ただ、私は別にこういうフリマサイトを批判したり、それを利用する人を批判するつもりはないのです。
不用品を有効利用するのは悪いことではないでしょう。捨てるのはもったいないからとこういうシステムを利用する人はいるでしょうし、その取引自体を楽しんでいる人も沢山いると思います。
楽しめる、ということは自分の利益にさほど固執していないからだと思います。そういう人たちにとっては、問題ないシステムだと思うのです。

だけど私は、きっと欲が人一倍強いのです。今回のことも欲が強い分、最後は気持ちが疲れてしまいました。
私が、こういう取引をゲーム感覚で楽しめて、利益が少なくても気にしないタイプなら、つまり欲がさほど強くないならいいのでしょうが、悲しいかな、私はやはり欲深いタイプの人間なんです。
私のような人間は、手を出すべきではないのでしょう。

そういう自分を改めて実感させられる出来事でした。