残された人生の生き方を求めて

平均寿命まではまだまだですが、50代後半に差し掛かって、残された時間で、本当に知りたかったこと、そしてその答えを探していくなかで、お念仏に出会いました。私の考えたことや、その手助けになった本や体験を書いていきたいと思います。

念仏と共に生きる

久しぶりの更新です。8月以来でしょうか。
それほどたくさんの人が見てくれているブログではないのですが、さすがに間が開き過ぎですよね。
色々書きたい事もあったのですが、生活が変わって時間がなかなか取れなくなったこと、そして考えるところもあり、新しい記事をアップせずにいました。

自分の生き方を考えていきたい、その考えの過程を残していきたい、そういう思いで約1年前にこのブログをスタートさせました。
しかし、この数カ月の間に、私はある決断をしたのです。
いえ、決断などというと仰々しいかもしれません。何と言うか、ある思いが定まったのです。それをブログにあえて書くべきか、それとも今まで通り書いていくか、考えていたのです。
それほど多くの人が読んでいるわけでもないのに、気にし過ぎかもしれませんね。でも一応、世間に向けて発信しているわけですから。

その決断とは、お念仏と共に生きていく、ということです。
阿弥陀様の世界に生まれさせてもらえるように、生きていくことにしました。

実はこのような道を進むことは、約1年前に、このブログを始めた時からわかっていたことかもしれません。
このブログの記事をはじめから見てもらえれば、お浄土の教えに関する記事が多いのは事実です。
実際私には、このブログを始めた頃にはすでに阿弥陀様を信じる気持ち、いえ、もう少し正確に言うと、信じたい気持ちがありました。自分を救ってくれて、よりよい生き方を示してくれる道に思えたのです。
ですが一方で、「本当に自分は阿弥陀様を信じられるのか」「そんなあるか分からない極楽浄土を本当に信じるのか」とも考え続けていたのです。
最初から結論ありき、ではないのか。そのためにこんなブログを書いているのではないか。そんなことを、思ったりもしました。
ですが、今の私にはその道しかないし、それが本当に生きる道に思えるのです。

こんな感じでカミングアウトするのにあたって、このブログは閉鎖したほうがいいかもしれない、もし続けるならば「お念仏に生きる」とかいうタイトルで新しくブログを立ち上げた方がいいのかな、とか考えました。

しかし、これまで書いてきたことも決して嘘ではありません。私の考えの遍歴として、その連続性を残していくのも、意味のあることかもしれない、と思いました。
また、私の心や考えというものも、いつまでも同じではありません。それこそ、全てのものは移り変わることは仏教が説いていることです。だから、もしかしたら後に「やっぱり、阿弥陀様なんて信じられない」「信じていた気になってただけだった」という考えに変わるかもしれません。
もしそうなったとしたら、その変化を記録しておくのも、私にとって必要かもしれない、と思いました。

もっとも、この阿弥陀様の本願を信じる、ということは、あらゆることが変わっていくなかで、私にとって唯一変わらないもののような気がするのです。それは信じるに至った過程を思うと、変わりようがないと思うのです。

それでも、信じることが変わることを無理に拒むのは、おかしなことでもあります。信じられなくなったら、信じないだけです。そして、その可能性も絶対ないとは言い切れず、「変わらない」と言い切るのもおかしいと、今の私は感じます。

この数ケ月で私の生活環境も変化をしました。
その間、読んだり聴いたりした話の中で、今回、お念仏と共に生きよう、という決心につながったこともあります。
それらも、いずれ書いていきたいと思います。
しかし、今書いたように、生活の変化があったため、なかなかパソコンに向かう時間もとれなくなってもいます。それでも少しずつでも、私の考えの遍歴を残していきたいと思います。

「残された人生の生き方を求めて」というブログタイトルは変わりませんが、ブログの説明記事は少し変えました。
また、ブログ開設時に書いたトップの固定記事も、下げることにしました。
今後は浄土の教えに関すること、阿弥陀様の本願を信じてお念仏をすること、それに関することが増えるとは思いますが、これまでと同様に私自身が考え感じた様々なことを書き留めていきたいと思います。