残された人生の生き方を求めて

平均寿命まではまだまだですが、50代後半に差し掛かって、残された時間で、本当に知りたかったこと、そしてその答えを探していくなかで、お念仏に出会いました。私の考えたことや、その手助けになった本や体験を書いていきたいと思います。

損することと得すること

阿満利麿先生の本の中で、強く印象に残っている一節があります。
歎異抄」を訳された本で、第三章の阿満先生による解説の部分です。

自己の欲望を追及することが人生という近代以降の風潮のなかで、自己中心であることが原因で起こる摩擦、軋轢、悲劇を認め、自らを「悪人」と意識する困難さを指摘し、次のように続けます。

このような人間が自らを「悪人」だと意識するにはよほどの条件が整わねばならないだろう。
その条件の一つは、飽くことのない自己中心の生き方が挫折するときであろう。その時はじめて、自分の欲望追及のためにどれほどの人々の願いが無視され、踏みにじられてきたか、に気づかざるをえない。

歎異抄』阿満利麿=訳・注・解説 ちくま学芸文庫

特に「どれほどの人々の願いが無視され、踏みにじられてきたか」という部分には、衝撃を受けました。
この言葉を我が身にあてはめて考えたとき、私ははじめ「まさか、いくらなんでも私は、そこまでひどいことを他の人たちにしてこなかったはずだ」と強く否定する気持ちが働きました。いえ、否定したい気持ちが働いたのだと思います。
しかし、本当に否定できるのでしょうか。

度々私は、現在の私はドン底状態ということを書いてきました。
それを詳しく書くと、不幸自慢になりそうで書きたくはないのですが、一つ明かしてもらえば、私は小さな会社を営んでいて、それが倒産したのです。
チビ会社といえども、経営者として働いていました。
経営していたときに、ふと感じたのは、損と得に関してでした。会社の経理・会計をしていて不思議な思いにとらわれたのです。

経理を行うときには1円の違いもないように、記録していきます。
売上、仕入れはもちろんのこと、光熱費、人件費、細かな消耗品類、支払い利息、また逆に預金についてくる利息等々。
会社のお金の出し入れ、動きを1円のミスもなく記録して、利益や損失が出てきます。その利益も1円の狂いもなく、預金口座や手元の現金などに振り分けられ、実際にその金額が手元にあるわけです。
世の中の会社がすべてこのように、1円の狂いもなく金銭を管理し、利益か損失を出しているのだとしたら、私の会社で利益が出ると必ずその分、別の会社や個人が損をしているはずです。

経済のことがきちんと分かっている人からすると「いや、それはね…」といわれるかもしれませんが、私がプラスになれば誰かがマイナスに、私がマイナスになれば誰かがプラスになっていることは、基本的に間違っていないと思うのです。
私は、経営をしているとき、そのことがなんとも不思議でした。その「お金」というものの存在と流れとでもいうのでしょうか。

私の事業がうまくいったときは、誰かが泣いて、そして赤字になった時には、誰かが幸せになっていたはずです。そういうことは以前から頭ではわかっていたと思います。それが切実に感じるようになったのは、自分の会社が倒産してからでした。
自分自身がドン底になってはじめて、これまで私が自分の願いを叶えることによって「どれほどの人々の願いが無視され、踏みにじられてきたか」を実感したのです。
人をだましたり、ずるいことをしてきたつもりはありません。ですが、私が得をすることにより誰かが泣いていたことは間違いないと思えたです。

情けなく、悲しく思うのは、こういうドン底状況にならなければ、そのことが実感できなかったことです。繰り返しますが、頭では分かっていたのです。私がプラスになれば、誰かがマイナスになることは。

誰かが得をすれば誰かが損をすることは、世の常であり、仕方ないことだと考える人もいるかと思います。きっと以前の私もそう思っていたのでしょう。
誰だって好んで損はしたくはないですし、利益を得るために働いて、日々努力をしているのです。それによって一方で、損をしてしまう人がでてきてしまうことは、仕方がないことかもしれません。

しかし、今の私には、この世界に身をおきながら、自己の欲望追及をしてきたことが、結局自分を苦しめる結果を生んだ気がしてならないのです。
そして今の状況を、とても「仕方ない」とは受け止められないのです。そして、受け止められない、というのも自己中心的な考えがあってのことだと思うと、もう、まったく出口は見つかりません。

だとすれば、私はどうすれば心が穏やかに毎日を過ごすことができるのでしょうか。
まさにそのような私のために、阿弥陀仏誓願があると思えるのです。
なぜ、ここで阿弥陀仏誓願に結びつくのか。この記事を読んだ人の中には不思議に思う人もいるかもしれません。
それは、まだなかなか言葉で表すことができないのです。よく自分自身で考えて、いずれ書いてみたいと思います。