残された人生の生き方を求めて

平均寿命まではまだまだですが、50代後半に差し掛かって、残された時間で、本当に知りたかったこと、そしてその答えを探していくなかで、お念仏に出会いました。私の考えたことや、その手助けになった本や体験を書いていきたいと思います。

ある法話会にて

ある法話会に参加をしました。
浄土の教えに関する法話でした。

お話の後に、講師の方が参加者からの質問を受ける時間を設けてくれました。
その時、ある年配の女性が、何度も質問をしてきたのです。

その質問内容は、仏教や浄土の教えに関しては、かなり初歩的な内容でした。初歩的とは、少し興味を持ってその関係の本を読んだり、ネットで調べれば解決する内容だったのです。
また、ほかの宗教との比較をして、他宗教についての質問もしてきました。講師の方もおそらく、他宗教に関しては専門外でしょうし、質問の内容も、今日の話からずれてしまうことも度々でした。

講師の方は、その女性に丁寧に答えていたのですが、ほぼその人と講師の方とのやりとりになってしまいました。周りの参加者は明らかに、途中からうんざり、という空気になってきました。
的外れな質問内容だった時には、失笑する参加者もいました。

私は、その失笑する人たちに対して、いい印象を受けませんでした。いかにも「そんなことも知らないのか」という嘲笑に感じられたからです。
ですが、私自身もその女性に対しては、苛ついていたのも事実です。
そんなことは、少し自分で調べればわかるのに、わざわざ直接質問を受けてくれるこの場で聞くことではないだろう、と感じたりしたのです。

しかし、その女性は何度も食い下がって質問を続けて、他の人があまり質問できないまま、その法話会は終わりました。
出口に向かう通路では、その女性に対して不平や笑いの声が、参加者たちの中から聞こえてきました。

私も不満を感じつつも、一方で、なにか心に引っかかるものを感じていました。
そして、帰宅してから、その日の引っかかるものを考えてみると、その女性こそ、阿弥陀様に真っ先に救われる人ではないか、と感じたのです。

印象に残るのは、その人の必死さでした。
自分の好奇心から発した質問もありましたが、何よりその人は必死でした。
浄土はどんなところなのか、キリスト教でいう天国なのか、今この生活がどう変わるのかなど、とにかく知りたい、という感じだったのです。
このような人こそ、本当に何かを一心に信じることができるのではないか。もし阿弥陀様の誓願を信じるようになれば、間違いなく真っ先に救われる存在になるのではないか、と思いました。

一方の私は、やはり周りの目を気にして、実は聞いてみたいこともあったのに何も言いませんでした。周りの人を思いやってではありません。平たく言えば、いい格好がしたい、周りから良く思われたいだけなのです。
その人は、いい格好をしたいなどとは、思っていなかったでしょう。邪心がない、とでもいえばいいのでしょうか。

しかし、こう書いてしまうと、別の疑問も起こります。
それならば、周りの迷惑を考えずに自分の思いに従って行動することが、「邪心」がなく良いことなのか。空気を読まないことは、格好をつけていないことだから、良いことなのか、ということです。
その人は、明らかにその場の空気を読んでいませんでした。

私がこれまで本を読み、講演・法話を聴いていたなかで、「宗教」と「道徳」とは違うのだ、ということが度々出てきました。
道徳的な観点からすると、法話会でのその人の空気を読まない行動は、話題を脱線させたり、他の人の質問時間を奪ってしまったりして良くないことだったしょう。
しかし宗教的な観点からいうとどうなのでしょう。

そういう観点から考えると、良い悪いではない、と思います。
その人はその人なりに、必死の問いかけをしていた、その事実だけがあり、それはその人にとって必要なことであった、ということです。
そして私は、それができない人間だった。それは、周りを気にしていい格好をしたいからです。その人に比べると、必死の問いかけなど私にはなかったのかもしれません。
私が何も言わなかったことは、「格好をつけたい」という自己中心的な感覚からであり、そんな私が、質問時間を独り占めしたからといって、その人に対して苛ついたりできないだろう、と思いました。

私も、その人みたいに周りを気にせず、聞きたいことがあれば遠慮なく聞けるようになれれば、とも思います。
だけど私はどうしても、周りの目を気にして、格好をつけてしまいます。以前も触れましたが、これはもう私の一部といってもいいかもしれません。
私は、その人みたいになれないのです。

ここで今の私は、あることに気がつくことができて、少し心が救われます。
それは、阿弥陀様の誓願は、そのような私のために向けられているのだ、ということです。