残された人生の生き方を求めて

平均寿命まではまだまだですが、50代後半に差し掛かって、残された時間で、本当に知りたかったこと、そしてその答えを探していくなかで、お念仏に出会いました。私の考えたことや、その手助けになった本や体験を書いていきたいと思います。

欲生我国

無量寿経』には阿弥陀様の本願が書かれていて、その第十八願に、私たちを阿弥陀様の国、極楽浄土へ生まれさせるための願いが書かれています。
そこには、念仏が私たちを極楽浄土へ生まれさせる根拠になる、こういう記述があります。

十方衆生 至心信楽 欲生我国 乃至十念
<読下し>
十方の衆生、至心信楽して、わが国に生ぜんと欲(おも)ひて、乃至十念せん

(読下しは『浄土三部経本願寺出版社 仏説無量寿経 上巻より)

この中の「欲生我国」について、私は単純に、わが国(極楽浄土)へ生まれたいと願いなさい、ということだと受け取っていました。
事実そう書いてあるので、その捉え方は間違っている訳ではないと思うのですが、最近、少し違う捉え方をするようになりました。
この部分が、ただ単に極楽浄土に「行きたい」「生まれたい」という願望を指しているだけではないのでは、と思うようになったのです。

*      *      *

阿弥陀様は、分け隔てなく、誰に対しても平等に救いの手を差し伸べてくれます。
また、阿弥陀様の建立した極楽浄土にも、分け隔てや差別は存在しません。
この「平等」ということが、阿弥陀仏の慈悲の要であり、だからこそ私も必ず救われると確信できるのです。

ですが近頃、思いました。
はたして、私自身は「平等」を求めているのだろうか。
どうも、そうではない感じがするのです。

例えば、よく引き合いに出される話ですが、重大犯罪を犯した人も、阿弥陀仏に帰依して念仏をとなえれば救われるのか、という問いがあります。
この世では犯罪者は、法律の元で裁かれ、罰を受け、一番重い罪に対しては、今の日本では「死」が与えられることになります。
しかし、この世でどんな罰を受けた凶悪犯でも、本願を信じて念仏をすれば救われていくはずです。
凶悪犯も阿弥陀様は救ってしまうのか、と抵抗も感じます。

ですが時々、凶悪な犯罪者の生い立ちや、おかれた環境が報道されたりします。それを知ると、犯人は悪人であり、そのような者は救われるべきではない、という考えにも疑問が出てきます。
もちろん被害者や、その家族からすると、決して許せない思いは当然だと思います。
ですが、その犯人は法律に則った罰は受けるにしても、その人にも何かしらの救いがあってしかるべきでは、という思いが起きてきます。

むしろ、自分にとって身近な人の場合の方が、その人が救われていくことに対しての抵抗が大きいかもしれません。
これまで私の周りにも、「この人さえいなければ」と思ってしまう人はいました。その人のために自分が辛い思いをしたり、何かしらの損害を被ったりしたら、その人を嫌い憎む気持ちはどうしても起きてしまいます。
そういう人に対しても、阿弥陀様の慈悲は、私に対してと同じように注がれている、と考えると、どうでしょう。どうにも釈然としない思いが残ってしまいます。

私は心の中で阿弥陀様に訴えます。
阿弥陀様。阿弥陀様は皆を平等に救うといいますが、あのずるい人、あの意地悪な人、私にあんな酷いことをした人も平等に救うというのですか」

ですが、それはあくまでも自己中心の考え方なのです。
これは「私」を特別視している考え方に過ぎません。
私にとって、あくまでも「私」は特別で、「私」は救われてもいい存在なのです。これこそ、自己中心的な考え、つまり煩悩に絡み取られている姿なのでしょう。

そして、そういう自己中心の考え方は、単に道徳的、倫理的に良くないだけではありません。
人に対して怒りを覚えたり、憎しみを抱いたりすれば、それは私の心に大きな波風を立てて、要らぬ不安や恐れを抱く原因にもなります。それが結局、私自身を追い込んで苦しめている、そのことも、今は理解できているつもりです。

それでも、頭では分かっていても、私の心は阿弥陀様の「平等」に抵抗してしまいます。
あんな人も、阿弥陀様は平等に救ってしまうのか…救ってほしくない…という、自分でも誤っていると思える心が、どうしても生じてしまうのです。

阿弥陀様が願うような「平等」など、きっと私は望んでいないのです。
私は、阿弥陀様の、一切の生きとし生けるものを救いたいという平等な考え方に、心の底では賛同していないのです。それが結局、私自身を苦しめる要因になっていると分かっていても。
そんな私だからこそ、「平等」を実現した国、私の心にも「平等」を願う気持ちが生まれる国である極楽浄土を目指して欲しい、と阿弥陀様は第十八願で願われたのではないでしょうか。

十方衆生 至心信楽 欲生我国 乃至十念

今はまだ「平等」を願う心を起こすことができない私が、「平等」を願う私になること、まさにそのことを欲しなさい、それが「欲生我国」の意味ではないか、と近頃思うのです。
そう考えると「欲生我国」という言葉は、とても重く感じられます。