残された人生の生き方を求めて

平均寿命まではまだまだですが、50代後半に差し掛かって、残された時間で、本当に知りたかったこと、そしてその答えを探していくなかで、お念仏に出会いました。私の考えたことや、その手助けになった本や体験を書いていきたいと思います。

『人はなぜ宗教を必要とするのか』(阿満利麿)を読んで

『人はなぜ宗教を必要とするのか』
阿満利麿 ちくま新書 1999年11月20日発行 

現代の日本では、多くの人が宗教の必要性を感じていないと思います。
そんな現代において「宗教」とは何か、著者は解き明かしていきます。
そして、その「宗教」がなぜ現代の日本人の多くに、必要とされなくなっているのかを考えます。
いえ、現代の人々にとって必要のないと思われている宗教とは、本当に宗教本来の姿なのでしょうか。宗教に否定的な人たちも、実は宗教的な一面を持っているのではないでしょうか。
本書では、論理的に分かりやすく、宗教とは何かを解説してくれます。

 


 

「宗教」と、いったい何でしょう。
その問いかけは、本書を通して様々な形で繰り返されます。
そして、宗教は必要ない、宗教は嫌だ、という人たちの考えを、丹念に分析して、「宗教」と私たちが日常感じている「常識」や「道徳」などとの違いに触れていきます。 

しかし、人生には常識では対処できない事柄が存在しています。しかも、それらは突如出現してくるのです。人は動揺するだけです。常識の無力をいやというほど思い知らされるのです。そのとき、宗教が示す「物語」、「教え」が身にしみて了解されはじめるのです。 

日常が、自分の常識では理解できないくらいに揺り動かされるとき、はじめて宗教が説く、常識を超えた「非常の言葉」(著者)が届きます。

 

そして、宗教を信じる人は弱い人だ、という世間に多く存在する考えに、阿満さんは異議を唱えます。
宗教の言葉に耳を傾ける人は、判断力の劣った人だ、インチキに惑わされた人だ、という「常識」に基づいた考えに対しての言葉です。 

「非常の言葉」に耳を傾ける人は、常識の立場に踏みとどまっている人から見れば、「弱い人」に映るだけでしょう。「弱い」という判断は、あくまでも常識が下すものなのです。

 実は「宗教は弱い人のものだ」という考え方は、私自身が、若いころから宗教と距離を置いてきた大きな理由の一つでした。
年を重ねるにつれて、宗教を求める人は本当に「弱い人」なのか、「宗教は弱い人のもの」というのは違うのではないか、という疑問も生まれてはきました。
ですが、それを明確に否定する言葉は、私には見つけ出せませんでした。
上に引用した文章は、私に宗教の本質を明示してくれました。
本来、宗教を求めるべき人、必要とする人は、「私」だったのだ、と感じたのです。

 

また、井上靖の小説『化石』を題材に取り上げて、人が死を前にして「本当の生き方」を求める時、その「本当の生き方」とは、何なのだろうか、と問いかけます。
かつては、宗教がその道を示してきたこと、けれども今多くの人は、宗教とは別の道に「本当の生き方」を期待していることを指摘します。
別の道としての「自己実現」を上げ、芸術、ビジネス、学問などに目標をたてて、その実現に「本当の生き方」を求める人に対して、次のように述べています。 

ともかく、人生に一定の目標を立ててその実現に邁進することによって、充実した人生を得ようというのです。そうした努力が払われているところでは、宗教は、俗にいう、お呼びではないのです。

 思い返せば、若かりし頃の私にとっても、宗教はお呼びではありませんでした。
若いころも、思い悩んだりしたことはもちろんありました。
主に、自分のふがいなさに対しての自己嫌悪であったり、自信のなさが原因だったり、将来に対しての不安、正に「自己実現」に対しての不安でした。
だけど、今、50代半ばを過ぎた私にとって、人生の一大事は、もはや「自己実現」ではありません。
そもそも今から、芸術や学問やビジネスや恋愛などで成功するなんて、考えられませんし、そこに残された時間と情熱を傾ける気持ちにはなれないのです。
残された人生が20年かもしれない、だけど、もしかしたら数年かもしれない。そのように死が現実味を帯びてきた年齢になって、「自己実現」は、私にとっての「本当の生き方」の指針にはなり得ないのです。

 

今の私には何より、宗教が説く「非常の言葉」が、必要なのかもしれません。
しかし、頭で「非常の言葉」を求める意味が理解できても、本当に私がそれを何の疑いも違和感もなく受け入れることができるのかは、また別の問題です。
私を縛り付けている「常識」は、それほどまでに大きく、強いものなのでしょう。
50年以上も、そうして生きてきたのですから。