残された人生の生き方を求めて

平均寿命まではまだまだですが、50代後半に差し掛かって、残された時間で、本当に知りたかったこと、そしてその答えを探していくなかで、お念仏に出会いました。私の考えたことや、その手助けになった本や体験を書いていきたいと思います。

『歎異抄』全訳注=梅原猛

歎異抄
全訳注=梅原猛 講談社学術文庫 2000年9月10日発行

歎異抄』は親鸞の弟子、唯円の著作と言われています。そこには親鸞の言葉や教えが、生々しいまでに書き残され、「本願念仏」「本願他力」の教えを伝えています。
大変、著名な本ですから、沢山の訳本や解説書が出版されています。
私はその内の何冊かを読んだだけですが、まず初めに手に取った『歎異抄』の訳本は、この梅原猛さんによるものでした。
梅原さんの『歎異抄』に寄せる思いが、時に激しく熱く表されています。
親鸞の言葉、思想もさることながら、梅原さんの思想が強く伝わってきます。

 


 

この本は、大きく分けると前半が『歎異抄』の現代語訳となっています。
後半は梅原さんによる解説で、『歎異抄』が生まれた経緯や、親鸞唯円に関する考察などで構成されています。

歎異抄』の原本は「序言」に始まり、「第一条」から「第十八条」まで続き、「後序」「附録」と続きます。
この訳本の前半部、現代語訳では、各条ごとに<原文>が掲載され、続いて梅原さんによる<現代語訳>、<こころ>、が書かれている構成になっています。
私が読んだ訳本は決して多くはないのですが、梅原さんによる<現代語訳>は、それらに比べと、意訳の幅が大きい印象があります。
もちろん、本筋を踏み外しているわけではないでしょうし、むしろ、分かりやすく、説得力のある文章に感じられます。

 

<こころ>の部分では、梅原さんの解説や、解釈がつづられています。
この本の魅力は、原本である『歎異抄』の力によるところもありますが、この梅原さんの<こころ>にあると思います。
例えば「第二条」では、極楽往生についての質問をしてきた人たちに対する、親鸞の答えが書かれています。その最後に親鸞はこう語ります。

このうへは、念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御はからひなりと云々。
(現代語訳=梅原:だから皆さん、以上の私の言葉をとっくりお考えの上、念仏を信じなさるもよろしいし、念仏を捨てなさるのもよろしい。全く皆さま方の自由勝手、皆さま方が自分でおきめになることであります。)

梅原さんは、その親鸞の言葉を、<こころ>でこのように解説しています。

親鸞は、強い信仰の言葉を語りながら、その信仰を他人に押しつけようとしない。信仰を捨てようが取ろうが、おまえたちの自由だという。私は寡聞にして、このような自由で、しかも確信にあふれた信仰の言葉を聞いたことがない。

 

また、「後序」では、このような親鸞の言葉が残されています。

弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり。
(現代語訳=梅原猛阿弥陀様さまが五劫というたいへん長い間一生懸命に思索して考え出された本願をよくよく考えてみれば、ただ親鸞一人のためであった。)

それに対して、梅原さんは<こころ>で、こう書き記します。

驚くべき言葉である。阿弥陀仏はあらゆる衆生を救うために修行したのであり、決して親鸞一人を救うためではあるまい。(中略)しかし、この言葉を理解できない人に宗教を語る資格はないと私は思う。
宗教は孤独な人間の営みである。孤独な自我の荒野の中で、神は初めて人間に語りかけるのである。(中略)親鸞もまた、長い孤独な荒野の中で神を見出した人であった。

私がこの訳本を読んだのは、もう10年以上前のことです。
それ以来、何度も読み返して、文庫本はボロボロなのですが、初めて読んだとき、この梅原さんによる<こころ>の内容に、非常に衝撃を受けたのです。

 

宗教は孤独な人間の営み…。
そもそも人間は孤独です。どんなに愛する人、愛してくれる人がいても、死ぬときは一人で死ぬのですから。
完璧な読心術でもない限り、心は誰とも共有できません。自分の心は誰にも分らないし、他人の心を共有してあげることもできないのです。
そして、その孤独の中で初めて、神が一人の人間に語りかけてくる。
だけど、10年前の私は、そのことはとても辛く感じました。
孤独を極めていかなければ、神には会えないのか、と思ったのです。それは、辛いことだと感じたのです。

 

確かに人は孤独だ、と思います。
それを直視することは辛いことですが、辛い辛くないを超えて、きっとそれは真実なのでしょう。
それが心底から理解できたときには、私は神と対峙できるのでしょうか。
その時絶望の中で、わずかでもいい、希望を与えてくれる、そういう存在が私の前に現れてくれるのでしょうか。