残された人生の生き方を求めて

平均寿命まではまだまだですが、50代後半に差し掛かって、残された時間で、本当に知りたかったこと、そしてその答えを探していくなかで、お念仏に出会いました。私の考えたことや、その手助けになった本や体験を書いていきたいと思います。

極楽浄土の存在

今現在、私は念仏を唱える毎日を過ごしています。
しかし、実際に自分で念仏を唱えるまでには、時間がかかりました。
浄土の教えそのものには、ずいぶん前から納得はしていたと思います。特に『歎異抄』に書かれている内容は論理的であり、私にとっては、大変説得力のある内容でした。それでも、すぐに念仏を唱えるようにはなりませんでした。

梅原猛先生が著書『親鸞の告白』の中で書かれています。
歎異抄』の熱烈な愛読者と自認しながら、自身の信仰に関してこう書いています。

あえていうならば、世俗の偽善を謗(そし)り、おのれの煩悩(ぼんのう)の地獄を凝視する親鸞はよくわかるのだけれど、阿弥陀の本願を信じ、必ず極楽に往生するにちがいないと思って欣喜雀躍(きんきじゃくやく)して念仏する親鸞は、よく理解できなかった。いや、理解できないというよりは、近代人としての私自身の理性がそれを拒否していたのだ。
親鸞の告白』梅原猛=著 小学館文庫

梅原先生と私を同列にするのは失礼かもしれませんが、かつての私の感覚も、この梅原先生に近かった気がします。

私にとって、まずは阿弥陀仏の存在や、浄土の存在が問題でした。
存在しないものを信じることはできない、それこそ盲信ではないか。いくら『歎異抄』に納得できて心を動かされても、本当に存在するのか分からないものを信じきれなかったのです。

一方、阿満利麿先生の本の一節が、心に引っかかっていました。明治の宗教哲学者で、東本願寺の僧侶でもあった清沢満之氏の言葉をとりあげています。清沢氏の文章を孫引きするようなかたちになりますが、阿満先生の本から引用させてもらいます。

清沢が例にあげているのは、「地獄」や「極楽」の問題です。科学の見地からすれば、「地獄」や「極楽」の存在は証明することはできません。その有無は、科学によって決定できないことがらです。むしろ、「地獄」や「極楽」の問題は、宗教において解決されねばなりません。(中略)
清沢は、「地獄」・「極楽」をめぐる疑問は、宗教的信仰が未成熟な段階で生じ、信仰が「成熟」するにしたがってほとんど問題にならないという事実に注目し、「地獄」・「極楽」の問題は、信仰の世界において解決されねばならないと主張しています(「科学と宗教」)。
『人はなぜ宗教を必要とするのか』阿満利麿=著 ちくま新書

私はこの中の、信仰が成熟すれば「地獄」・「極楽」の問題はなくなる、ということに、「本当なのだろうか」と思ったのです。
そうならば、そうなってみたい、と思いました。
その頃の私は、「極楽」や「阿弥陀仏」を信じたかったのです。だけど、「そんなものは実在しないだろう」という思いがあったわけです。

私は、宇宙や物理学に関する本を読むことも好きでした。そして宇宙の大きさに惹かれていました。
そんな私は、宇宙にはこれだけの星や銀河がある以上、どこかに「極楽」が存在していてもいいのでは、と考えました。
また、物理学からするとこの世には11次元まで存在するというのです。私が想像できるのはせいぜい4次元、そして5次元くらいはあるかもしれないと思えても、11次元など想像もできません。ですが、たくさんの物理学者が理論的に11次元の存在を唱えているのです。
同じように、私の想像を絶するかたちで、別次元に「極楽」「阿弥陀仏」が存在するのかもしれない。11次元は偉い物理学者たちが唱えているから信じられるのに、「極楽」は信じないのはおかしいではないか、とも考えました。

しかし結局、そういう納得のしかたは違う、と思いました。
なぜなら、「極楽」を、あくまでも「科学的」な装いで信じようとしているからです。それは違うのではないか。結局「科学的」と思えることしか信じられない自分の限界を感じていたのです。

ですが徐々に私は、「極楽」や「阿弥陀仏」を信じたがっている自分に、気が付いてきました。信じたければ信じればいいじゃないか、という考えも心の中で生まれ育ってきたのです。
それが「科学的」かどうかなど、問題ではない。私がそれを信じることで、心が救われて穏やかな日々を過ごし、より良い人生を生きることができるならば、信じればいいではないか。そういう思いが強くなっていきました。

 そしてある時から、自分で念仏を唱えるようになったのです。
この念仏が実際に口から出てきたことについては、とても大きな出来事だと思うので、また改めて書いてみたいと思います。

最後に、最近読んだ本で「そうだ」と強く納得できる文章があったので、紹介したいと思います。

前にわたしは、「浄土はあるか?」と問われて、懇切丁寧に応えた。しかし、そんな質問をする人は、こちらが親切に百万言を費しても、絶対にわかろうとしないのだ。はじめからわかろうとする気がない。(中略)どうせ質問者は、「あってもなくてもよい浄土」を問題にしている。「あってもなくてもよい浄土」であれば、なくてもよい。わたしたちが問題にしている浄土は、
「なければならぬ浄土」
である。「なければならぬ浄土」は、絶対になければならぬ。
そうなんだ!「あってもなくてもよい浄土」は、なくてもよい。「なければならぬ浄土」は、なければならぬ。まさに簡単なことである。なんだか拍子抜けがしそうなくらいである。
『わがふるさと浄土』ひろさちや=著 法蔵館