残された人生の生き方を求めて

平均寿命まではまだまだですが、50代後半に差し掛かって、残された時間で、本当に知りたかったこと、そしてその答えを探していくなかで、お念仏に出会いました。私の考えたことや、その手助けになった本や体験を書いていきたいと思います。

いちばん大きなもの

だいぶ前の記事で、物理学と阿弥陀仏の物語には似ているところがある、ということを書きました。 

thinking-about.hatenablog.com

 私は物理学の専門家でもありませんが、宇宙やそれに関連した相対性理論量子力学などに興味があって、専門書ではないのですが、その手の本をよく読みました。
そして、阿弥陀仏誓願を知った今、科学の世界と仏教の共通点を感じるのです。認識の共通点とでもいえばいいでしょうか。
今回もまた、私が感じたことを書いてみたいと思います。

私は子供のころから、宇宙の果てはどうなっているのか、宇宙の外側には何があるのか、大変興味がありました。
いろいろ本も読んできて、だいたい今の科学で分かっていることも、何となく理解できています。また宇宙の果てについても、どのような答えが出されているのか、ある程度知ってはいるのです。
ですが、それでも思うのです。
「それにしても、宇宙の果てはどうなっているのだろう…」と。

最近、部屋の整理をしていて、何年か前に買った宇宙に関する本を見つけ、読み返してみました。
すると、宇宙を認識することと阿弥陀仏を認識することは似ているのではないか、と改めて感じました。

本の名前は『宇宙背景放射 「ビッグバン以前」の痕跡を探る』、著者は羽澄昌史氏、集英社新書の本です。
羽澄氏は素粒子物理学者で、電波望遠鏡等を用いて観測活動を行い、宇宙誕生の研究をしています。ビッグバンや、それ以前に起こったとされているインフレーション理論を検証しているのです。(ちょっと不正確な紹介かと思いますが、私が素人ということでご容赦ください)

その本の中で羽澄氏は、宇宙の果てはどうなっているのか、宇宙の外側はあるのか、という問いに、こう答えています。

結論から言うと、この問いに対しては「本当のところはわかりません」と言うしかない。それが、専門家としてもっとも誠実な答え方だと思う。
また、さらに正直に言うなら、「それを考えても意味がない」ということになる。なぜなら、僕たちが研究しているのは「自然界でいちばん大きなもの」だからだ。
(『宇宙背景放射』羽澄昌史=著 集英社新書 以下同様)

ここで羽澄氏は、宇宙の認識に発想の転換を求めています。

何かごまかしているように思われるかもしれないが、これは宇宙論を考える上でかなり大事なポイントだ。ここでは、ひとつ発想の転換をしてほしい。
それは、「いちばん大きなものは外側から観察できない」ということだ。
もし外側から観察できたら、それは「いちばん大きなもの」ではない。つまり、宇宙空間という「いちばん大きなもの」は、「内側」からしか見ることができないのだ。

その認識で宇宙の始まりを考えるとどうなるのでしょう。
よく聞かれる質問、「ビッグバンはどこで起きたか」という問いにはこう答えています。

この質問が出ること自体、われわれが宇宙を「外側」から見たがることの表れだろう。
(中略)
しかし宇宙は、ビッグバンのときから「自然界でいちばん大きなもの」だった。したがって、ビッグバンを外から眺めて「あそこで起きた」と指させる観測者は絶対に存在しない。

私はこの本を何年ぶりかに読んで、「阿弥陀様とはそういう存在なのかもしれない」と感じたのです。
同時に、私自身の限界も感じました。
この羽澄氏の説明は、とてもよく分かります。
ですが、それに納得しても、しばらくたつとやはり、「だけど、結局宇宙の果てってどうなってるわけなの?」と考えてしまう私がいるのです。

阿弥陀仏は真理の象徴といわれます。「真理」と言われても、私たちは理解できないから、そのよすがとして存在している、とも聞きました。
「そうなのか」と一時はうなずいても、しばらくたつと再び「だけど、阿弥陀様って、本当に姿も形もないなのかな?」とか考えてしまいます。

これはまさしく、「人間」である私の限界ではないかと思うのです。
私の認識を超えているのです。
「宇宙」も「阿弥陀仏」も、私にはその実態は認識できない、できないからこそ「宇宙=いちばん大きなもの」「阿弥陀仏=真理」なのに、あくまでも「私=人間」の側に引き寄せて考え、羽澄氏が言う「内側しか見ることができない、いちばん大きなもの」を、どうしても外側から見ようとしてしまうのです。

 親鸞聖人は『和讃』で「難思議を帰命せよ」とうたわれています。
私にはつかみきれない世界がある、その存在を認めることは、認識できないだけに「人間」である私には難しいのです。
ですが今では、そのような存在があることが、かすかに、ほんとうにかすかに感じられる時もあるのです。 そしてそれを感じることは、私にとってなぜか大切なことに思えます。

この羽澄氏の『宇宙背景放射』は、とても読みやすい本です。後半はちょっと難しくなるのですが、宇宙に興味がある方にはお勧めです。