残された人生の生き方を求めて

平均寿命まではまだまだですが、50代後半に差し掛かって、残された時間で、本当に知りたかったこと、そしてその答えを探していくなかで、お念仏に出会いました。私の考えたことや、その手助けになった本や体験を書いていきたいと思います。

一番幸せだったころ

今回は個人的な思い出話が中心の内容です。
ですから、読む人にとっては、どうってことない話になってしまうかもしれません。

私も、2022年の今、60歳が近づいてきました。
若かった時、または数年前のことなど、過去のことを思い返すことが多くなりました。歳をとればとるほど過去の時間が長くなるわけですから、当たり前なのかもしれません。

過去を振り返った時、私にとって一番幸せだった時はいつかな、と考えます。
「幸せ」については、このブログを始めたころに触れたことがあります。その時私は、幸せっていう状態がどういう状態なのかわからない、という意味のことを書きました。

その感覚は今でも残っています。
ですから「一番幸せだったころ」といってもよく分からないところもあります。
「一番幸せに近かったころ」という方が、しっくりくるかもしれません。

 

私にとって幸せだった時、それは2度目の結婚生活のころでしょうか。
その再婚相手は二人の女の子がいる女性でした。その子供たちを過ごした日々は幸せだったと思います。
10年近く一緒に暮らして、結局、離婚して子供とも離れたのですが、出会ったころは、まだ二人の子供は幼く、特に下の子供は私を本当の父親だと思っていたはずです。
子供たちと一緒に夏休みにはプールに行ったり、家族旅行もしました。行楽の思い出ばかりではなく、勉強を教えたり、一緒に夏の自由研究をやったりしたことも思い出されます。日常生活でも、家族でホットプレートで焼肉をしたり、シャリの入った桶を囲んで手巻き寿司をしました。夜、布団をかけにいってあげたりしたことも思い出します。
辛いこと、大変なこと、嫌なこともあったのですが、満ち足りた日々だったと思います。

大学時代はどうでしょう。
私は関西の都市で親元を離れて一人暮らしをしました。
そして音楽が好きで、バンド活動に熱中しました。
一人暮らしなので、友人を部屋に呼んで朝まで飲んだり、またこちらから友達の部屋を渡り歩いたりしました。アルバイトにも精を出し、バイト仲間ともよく遊びました。
そして、その友人たちとも、時には衝突したり、傷つけあったりもしました。
辛いこともありましたが、やはり満ち足りた日々でした。


音楽学校に勤務していたころでしょうか。
前述のとおり、私は音楽が好きで大学時代からバンド活動をしていました。そして30歳くらいの時に、ポピュラー音楽を教える専門校で働きだしたのです。授業を受け持ったり、事務的な仕事もこなしました。
そして、よく学生たちと音楽イベントを立ち上げたりしました。イベントが終わって学生たちと打ち上げもしました。酔っぱらって大騒ぎする学生たちと、飲み明かしたのです。
やはり辛いこと、嫌なことはもありましたが、仕事にも打ち込み、まさに駆け抜けたような日々でした。

 

それとも
放課後、友人たちと部室で騒いでいた高校生のころでしょうか。
ピアノの練習に打ち込み、音楽の仕事を手掛け始めた20代のころでしょうか。
これらの時にも楽しかった思い出はたくさんあり、充実した日々ではありました。
でも、「幸せ」という表現には何か足りません。
そして、各時代を思い返していくと、幸せに一番近かったのはいつなのか、はっきりしました。


母の膝に乗っていたころです。


幼稚園の帰り道、膝が痛くなり泣き出した私は、母に背負われて帰りました。泣きながら母の背中越しに、家に続く坂道を私は見ていました。
小学生のころ、出かけるときには母の手を握って歩きました。いつも私がぶら下がるように手をつなぐので、たびたび母は「重たいよ~」と優しく声をかけてきました。
私は甘えん坊だったので、小学校の高学年まで母の膝に乗っていました。

その後、中学後半から高校生のころまでは、反抗期に入ったのか、母親に反発をし、口をきかなかったりしました。
多くの人に訪れる反抗期とはいえ、あれだけ優しい母に、自分にとっての拠り所であった母に対して、愚かなことでした。

この60年近くの人生を振り返ると、「幸せ」を一番感じることができたのは、心が満ち足りて安心感に包まれていた、母の膝に乗っていた子供のころだと思います。

何があっても、助けてくれる存在。
私がどのような私であっても、そばにいてくれる存在。
そのような存在がいてくれた時、それこそが私にとって、一番幸せに近かった時な気がします。

母が亡くなってから、もう17年になります。
何も返すことができなかったという思いは、近年さらに重くなっています。