残された人生の生き方を求めて

平均寿命まではまだまだですが、50代後半に差し掛かって、残された時間で、本当に知りたかったこと、そしてその答えを探していくなかで、お念仏に出会いました。私の考えたことや、その手助けになった本や体験を書いていきたいと思います。

怒りの心

仏教では、「貪(とん)」「瞋(じん)」「痴(ち)」という三つの煩悩を「三毒」として、最も重いものにあげています。この「三毒」についての詳細は、私は仏教の専門家ではないので書きませんが、その中の「瞋」について、特に思うところがあります。

「瞋」とは「瞋恚(しんに)」とも言われる、怒りの心を表します。
その内容は、怒りと言っても幅広く、妬みや不安な気持ちも、根っこには「瞋恚」があるといいます。
しかし私たちが普通に考える「怒り」の感情に限定して考えてみても、それがとても大きな問題を引き起こすことは、私の経験からも理解できます。


元来、私は短気で怒りっぽい性格でした。若い頃に比べて穏やかになってきたかな、と思うのですが、今でも根本は変わっていない感じです。
もっとも、今の私をみて、怒りっぽい短気な人間だとは、他の人は気がつかないでしょう。怒鳴ったり、大声で相手をののしったりはしないからです。ですが、心の奥底に怒りの気持ちが湧き上がることは今でも度々あります。ただそれを、言葉や行動に出さずに抑えているだけです。
すぐ言葉に出してしまう人より、心にその怒りをしまい込もうとする私の方が、たちが悪いのかもしれません。

その怒りの気持ちで、言ってはいけないことを言ってしまったり、正常な判断ができずに失敗したことは沢山あります。
過去の記事に書きましたが、私は離婚や破産などを経てきました。そういう結果を生み出したのも、様々な外的要因があったにせよ、私の中の怒りの感情、「瞋恚」の心が大きな原因の一つであったことは、間違いないと思います。
そして、そのような現実の失敗だけにとどまらず、怒りの感情が私自身の「心」に与えた影響も大きなものだと感じます。

 

仏教に触れて、聴聞を続け、念仏の毎日を送っている今、気付いたことがあります。
それは、怒っても何の解決にはならず自分も苦しくなるだけだ、ということです。当たり前すぎて、今さらそんなことに気が付いたのか、と言われそうですが、かつての私は、そのことが分かっていなかったのです。

例えば小さなことですが、道ですれ違う人とぶつかって、瞬時にムカッときたとします。心の中で「ここは左側通行だろ!」と怒りの感情が湧き上がります。
そう思うことによって、心はスッキリするのでしょうか。「まったく、なんてヤツだ!」と相手を責めて、怒ったら、それで私の心はスッとするのでしょうか。
また、大声で「おい、気をつけろ!」と言ったら、心が晴れるのでしょうか。

しかし、そうやって怒っても心が晴れるとは思えませんし、実際これまで、怒りの感情が湧き上がっても、その後、自分の心が晴れやかになることなど、まずありませんでした。
むしろ、なんとも言えない後味の悪さが残るだけです。
だとしたら、怒ることには全く意味がなく、ないどころか自分にとってもマイナスにしかならない気がします。
相手に怒りをぶつけることは、「私は正しいんだ」という自己防衛の手助けにはなるかもしれませんが、それによって晴れやかな気持ちには決してならないでしょう。

 

無量寿経』には次のように説かれています。

しかしながら、ときには争って瞋恚(怒り)の心をおこすことがあるでしょう。小さな恨みの心で憎悪しても、それが悪業となり、後世(死後の来世)には激烈で大きな怨恨となることを知りなさい。なぜなら、輪廻の苦界の世間では、たがいに傷つけあい、害しあうのです。
瞋恚の心は、その場ですぐに暴力をふるって相手を撃ち負かすようなことはなくても、毒を含み、怒りを蓄えて、憤りを精神に結び、自然に深く心に刻まれて、離れることができなくなります。そして、いつか未来に恨みの相手と出会い、報復しあうことになるのです。
(『全文現代語訳 浄土三部経』大角 修=訳・解説 角川ソフィア文庫

死後の来世まで考えなくても、この世でも怒りの心は増幅され、心を占領してしまい、かえって自分を苦しめる結果を呼び起こすことは、私の過去の失敗からもはっきり言えることです。
すれ違う人とぶつかった、そういう小さなことでも、ムカッとすることによって私自身の心が晴れることはありません。
もっと大きなこと、たとえば仕事上のトラブルや親しい人たちと衝突することにより、怒りの心が芽生えても、それによって心がスッとすることはなく、むしろ落ち着いた穏やかな心からは離れていく一方でしょう。

 

では、怒らなければいいのではないか、と思います。
怒りの感情が起きなければ一番いいのです。
しかし、それは私にとって不可能だと思います。

冷静に考える時間があれば、少しずつ怒りを収めることもできるかもしれませんが、瞬時に起こる怒りの感情を抑えることは、私にはとても無理です。
頭で、怒りの感情が無意味なことや、「怒り」が心や行動にマイナスの影響を与えることが分かっても、瞬時に起きる感情をコントロールはできません。
では、いったい私はどうすればいいのでしょう。

今の私にできることは、まず、そういう心をコントロールするための特効薬はないのだ、という事実を受け止めることです。
そして、それでもあきらめずに、怒りの感情はマイナスにしかならないことを忘れずに、少しでも私の心に与える悪い影響を減らして、晴れやかな気持ちでいられる自分を目指して、一歩一歩、進んでいくしかないのでしょう。

もしかしたら、それが「仏道を歩む」ということの、一つの現れなのかもしれません。生きているうちにはたどり着けない目標に向かって、私は歩み続けるのでしょう。

そういう考えを与えてくれたのも、念仏の力のように思えます。
短気な自分は変わっていませんが、目指す方向は見えてきた気はするのです。