残された人生の生き方を求めて

平均寿命まではまだまだですが、50代後半に差し掛かって、残された時間で、本当に知りたかったこと、そしてその答えを探していくなかで、お念仏に出会いました。私の考えたことや、その手助けになった本や体験を書いていきたいと思います。

再び、孤独と寂しさについて

前回の記事で、孤独と寂しさについて書きました。それからさほど日が過ぎていないのに、「ああ、そうだよな」と新たに気付かされることがあったのです。

thinking-about.hatenablog.com

阿満利麿先生の講義を収めた本、『『歎異抄』講義』(ちくま学芸文庫)の中に、「孤独」に関する記述があり、前回「孤独」について書いたばかりの私は、改めて考えさせられました。

この『『歎異抄』講義』は、私にとって、とても大切な本になると思うので、いずれこの本について書くつもりですが、今回は「孤独」について感じたことを書いてみます。
私が今回、「そうだよな」と感じたところは二河白道についての以下の記述です。

群賊は、荒野で西に向かって一人で旅をしている人を追いかけてきます。「一人」というのは、人間の本質的な孤独を表しています。放っておいたら、人は孤独になる道を歩んでいくものです。自己中心ということは、他人がいると困ります。他人が自分の手段として存在するのはいいのですが、自分の存在を脅かす他人には、存在してほしくないものです。孤独は人間の業だと思います。人間は自我中心ですから、孤独を求めるようにできているのです。
『『歎異抄』講義』(著=阿満利麿 ちくま学芸文庫)

人間は孤独だ、とは言わず、孤独を求めるようにできている、という指摘に驚き、また同時に納得できました。人は放っておけば孤独になるのです。
驚きましたが、考えてみれば当たり前といえば当たり前の事実かもしれません。
そして、その当たり前の事実が私にとって大きな問題となるのは、その自らが求めている「孤独」が、同時に私にとっては辛いことなのだ、ということです。
自分が求めているくせに、私はそれが辛いというのです。

近頃ずっと、私はいったい何を望んでいるのか、分からなくなっていたことがあります。
それは、私は「人」が好きなのか、嫌いなのか、ということです。「人」と一緒にいたいのか、いたくないのか、よく分からなくなっていました。
その答えが、阿満先生の言葉にありました。
要は、私は自分にとって都合のいい人と一緒にいたいだけなのでしょう。一人はいやだけど、自分にとって邪魔にならない人といたいのです。

ですが、これは無理なことです。
他人である以上、最初は自分にとって都合のいい人であっても、付き合いが続いていけば、そのうち邪魔に感じる時がくるはずです。
二度の離婚を経験した私は、その事を強く実感できます。私のあり方は、そうだったのです。また、相手にとって私の存在もそうだったのではないかと思います。

では、放っておいたら自ら「孤独」を選ぶ私、だけど一人はいやだという私は、どうすればいいのでしょうか。
どうしても、一人になりたくないのならば、自分にとっては邪魔になる人も受け入れなければいけません。
反対に、自分のとって邪魔になる人を受け入れられないのならば、孤独と寂しさに耐えるしかないのでしょう。

ですが、前回のような記事を書く私です。とても孤独に耐えられそうにありません。
そうすると、自分にとって邪魔になる人も、大切な仲間として受け入れていく道しかないように思えます。
そうなると次の問題は、私の「心」が、それについていくことができるか、ということです。理屈で理解して、頭で分かっていても、「心」は別なのです。

私は、このまま放っておいて孤独の道を歩むのか、今は大きな別れ道のような気がします。もう、若くはない私です。この別れ道の選択は、決して小さなことではないのです。
私は、私にとって邪魔な存在でも、受け入れることができるのでしょうか。