残された人生の生き方を求めて

平均寿命まではまだまだですが、50代後半に差し掛かって、残された時間で、本当に知りたかったこと、そしてその答えを探していくなかで、お念仏に出会いました。私の考えたことや、その手助けになった本や体験を書いていきたいと思います。

聴聞の日々に起こった迷い

私は今、時間が許す限り、法話や浄土の教えに関する講演を聞きに、つまり聴聞にいってます。
このような聴聞生活を始めて、かれこれ3年になります(2022年12月現在)。

離婚と破産という出来事を経て、仕事や家庭、家と土地も失って、一人で今住む街に越してきました。なぜこの街を選んだのかというと、仏法を聴聞できる場所が近くに多くあるから、というのも大きな理由でした。
ですが最近、法話を聞く中で、内容に疑問を感じることが増えてきたのです。

聞法に通いだしたころの私は、「とにかく話を聞こう。理解できなくても、内容に納得できなくても、つまらなく感じても、自分の判断はさしおいて、聞き続けよう」と考えました。
自分の気に入った人の話や、興味のある話、理解できる話だけを聞いていたら、自分の枠を抜けることはできません。いえ、自分の枠を抜けることはそもそもできないので、自分の枠を「広げる」といった方がいいのでしょうか。

これまでの自分の考え方や、生き方に疑問を感じ、違う生き方を模索する中で仏法に出会い、聴聞を始めたのです。
これまでとは違う生き方を見つけるには、自分には理解できないことや、興味が持てない話も聞いていくべきだ、と思ったのです。自分の判断をひとまず捨て去って、話を聞こうと思いました。
歎異抄』の「序」に書かれている、「自見の覚悟」、つまり自分の了解から離れるためには、自分で話の良し悪しを判断するべきではないと考えたのです。

しかし最近、聴聞をしていて、違和感や不満を感じてしまうことが増えてきたのです。
それは、私自身が変わってしまったのか、たまたま最近そういう話に出会うことが多かったのか、仏法を聞ける機会が沢山ある今の環境に慣れてしまったのか、わかりません。

では、どのような話に不満を感じるかというと、主に単なる「知識」に感じてしまう話です。
何年にこういうことがあって、その時親鸞聖人はこういうことをしていた。その時にこういう出来事があった、とか。
ある法座では、参加者に度々『真宗聖典』が配られます。そして、そこの○○ページを開いてください、次に××ページを開いてください、というように話が進められます。
そのような話は、私が聞くことに意義を見いだせないというだけではなく、聞いていると悲しくなってくるのです。聞き続けることが辛くなってくるのです。

私は、仏法聴聞というのは、人生の壁にぶつかり、もうこれ以上進めないのではないか、という人にとって最後の拠り所となる物語を聞かせてもらう場だと思っています。決して歴史や宗教を「勉強」する場ではないのです。知識を増やすための場ではないのです。
もうこれ以上頑張れない、という自死手前のギリギリの人が、その話を聞いて、その場ではよく理解できなくても、もう少しこの話を聞いてみよう、そのためにもう少し生きてみようと思わせる力が仏教にはあると思います。

もちろん、いつもいつも重い内容の話では、なかなか気持ちが前向きになれないでしょう。だから、時には笑いを誘うようなエピソードや、好奇心をくすぐるような話も必要かもしれません。
ですが、法話の根本は人の救いにあって欲しいのです。仏法、その中でも特に阿弥陀仏の物語には、それだけの力があると私は感じてきたのです。

最近、繰り返して読んでいる阿満利麿先生の本、『『歎異抄』講義』に次のような記述があります。
歎異抄』第六章に関して書かれているところで、「よきひと」、つまり私が思うに「善知識」、仏法に導いてくれる人について書かれています。

法然親鸞の考える「よきひと」とは、これが人間の悲惨さから抜け出す唯一の道だと高々と説くわけではなく、自分がその物語をどんな風に了解してきたのかを語ることしかできない、といいます。物語を求める人は、その話を聞いて、その物語を取るか取らないかを自分で決断しなければいけません。それは、聞き手の問題なのです。
『『歎異抄』講義』著=阿満利麿 ちくま学芸文庫

私が聞きたいのは、その人がどのように阿弥陀仏の話を受け止めてきたか、そして次は私自自身にどういう決断をするのか問いかけてくる、そういう話なのです。
それは必ずしも、話す人の経てきた人生を具体的に語ってほしい、というわけではありません。
その人にとって、念仏とはどういう存在なのか、それを知りたいし、感じたいのです。それがなければ、単なる「勉強」です。
歴史の話であっても、話す人自身がその歴史的事実から何を感じ取ったのか、自分自身の救いと人々の救いをどう感じたのか、それを聞きたいのです。それがなければ、単に知識を語るだけになってしまうと思います。
もっとストレートにいえば「他人事」のように語る話は聞きたくないし、辛くて聞いていられないのです。

これまでは、とにかく自分の判断は捨て去って、どの人の話であっても聴聞してきました。ですが、これからは講師の方も選んで聞きに行くべきなのかも、と考え始めています。
ですが、やはりそれは「自見の覚悟」に繋がるのでしょうか。そこでまた私は迷ってしまうのです。