残された人生の生き方を求めて

平均寿命まではまだまだですが、50代後半に差し掛かって、残された時間で、本当に知りたかったこと、そしてその答えを探していくなかで、お念仏に出会いました。私の考えたことや、その手助けになった本や体験を書いていきたいと思います。

私は、生きたい

今日は2022年の大晦日です。
晦日だからといって、私にとって何か特別なことがあるわけでもなく、日々の生活の一日に過ぎません。
とはいっても、やはりこの一年を振り返ってしまいます。
その時ふと気がついたのですが、このブログを始めて三年が過ぎたのです。最初の記事をかいたのが2019年の10月です。

私はこのブログを始める前にも、自分の趣味に関するブログをいくつか開設していましたが、実は三年以上、更新を続けたブログはないのです。
途中でネタが尽きてしまったり、関心事が変わったりして、閉鎖したか、今も存在しているにしても更新していなかったりします。
我ながら、根気のなさに情けなくなりますが、このブログはそんな私でも三年続いています。
もっとも、更新頻度はとても低く、ご覧の通りではありますが、途絶えそうで途絶えずに続いてはきました。
「頑張って継続しよう」と考えてきたわけではなく、そういう姿勢がかえってよかったのかもしれません。

この三年間を振り返ると、様々な生活の変化もありました。
最近の記事で度々触れていますが、このブログを始める少し前に私は離婚して子供たちとも離れました。そしてその翌年には事業も行き詰まり、破産したのです。
その後、今住んでいる街に越してきて、新しい仕事に就きました。
そして、この三年間で、何よりもの大きな変化は、念仏の生活に入ったことでしょう。

今回、過去の記事をいくつか読み返してみました。
読み返していく内に、改めて私はなぜ念仏を唱えるようになったのか、考えました。

このブログを始めたころの私は、家族、仕事、財産、人間関係など、あらゆるものを失い始めていたのです。
以前の記事で私は、同じ状況で自死を選択する人もいるのではないか、と書きました。ですが私にとって、自死は考えられませんでした。
そして、その記事で、私が自死を選択しない理由に一つに、娑婆への未練ということも書きました。

thinking-about.hatenablog.com

ですが、本当にその当時の私は、自死を考えていなかったのでしょうか。
今思うと、そうではなかったように思うのです。いえ、「死」の選択ではなく、「生」の否定に心が傾いていたように思います。

「死」の選択と、「生」の否定は同じことと思われるかもしれません。ですが、少し違うのです。
積極的に死にたいわけではない、だけど生きていく気持ちになれない、そういう感覚です。
そして今現在も、以前ほどではないにしても、「死にたいわけではない、だけど生きていく気持ちにもなれない」という状態は変わっていない気がします。

この「生きていく気持ちになれない」というのは、「生きていくのいやだ」という感じとは少し違います。
その感覚は、どう表現すればいいのでしょうか。

「生きていても仕方がない」と言い換えることもできます。
感覚としては違うのですが、考えていることは近い気がします。
もう何かやりたいことや、欲しいものも思いつかない、そういう状態ではあります。

「生きていてもいいのだろうか」とも言えます。
感覚的にはこれに近い気がします。
生きていく意味、意義もないままに、ただ呼吸をして、心臓を動かして(勝手に動いているのですが)、食べて寝て時間を過ごしていく。こんな状態で生きていてもいいのだろうか。

別に誰かに生きている許可を求めているわけではないのですが、こんな状態では、生きていても意味はないのではないか、という感覚です。
意味がない自分の「生」をこのまま継続していってもいいのだろうか、そういう感覚は当時の私には確かにあり、かつて程ではないにしても、その感覚は今も継続しているのです。

積極的に死にたいわけではない、だけど生きていく必要も感じない。
ですが、実際に私は自死を選ばなかった、そしてその理由を三年近く前の記事に書いたわけですが、今思うと、私が自死を選択しなかった根源的な理由は、もっとシンプルな気がするのです。
私の気が付かない、つまり無意識の領域で、やはり私にはシンプルに「死にたくない」「生き続けたい」という気持ちがあったのではないか、と思うのです。

私は、生きたいのです。

そういう私に、「生きていていいのですよ」と、阿弥陀様はそう語りかけている、そう感じ取ったから、きっと私は念仏を唱え、今も生きているのです。

歎異抄』の第九章には、こうあります。

また浄土へいそぎまいりたきこゝろのなくて、いさゝか所労のこともあれば、死なんずるやらんとこゝろぼそくおぼゆることも、煩悩の所為なり。久遠劫よりいままで流転せる苦悩の旧里はすてがたく、いまだむまれざる安養の浄土はこひしからずさふらふこと、まことによくよく煩悩の興盛にさふらふにこそ。なごりおしくおもへども、娑婆の縁つきて、ちからなくしてをはるときに、かの土へはまいるべきなり。いそぎまいりたきこゝろなきものを、ことにあはれみたまふなり。

いそぎまいりたきこゝろなきものを、ことにあはれみたまふなり。

「生きていてもいいのだろうか」と思っても、生きていたいのが私です。
そして、阿弥陀様は「それでいい」と言ってくれているのだ、と親鸞聖人は教えてくれたのではないでしょうか。