残された人生の生き方を求めて

平均寿命まではまだまだですが、50代後半に差し掛かって、残された時間で、本当に知りたかったこと、そしてその答えを探していくなかで、お念仏に出会いました。私の考えたことや、その手助けになった本や体験を書いていきたいと思います。

最近の出来事から(その1 ふと感じた「妙な感覚」)

最近、少々心を悩ます出来事があり、それに関連して思ったことがあります。ちょっと長くなるので、その1、その2に分けてみました。

*   *   *

私は今、契約社員として働いています。業務内容は、いわゆるブルーカラーの仕事です。度々書いているように、私は3年前(2023年2月現在)事業に失敗して、その後いくつかの職場を経て、2年ほど前に今の仕事に就きました。
今の仕事は給与が時給で計算されます。ですから契約社員といっても、アルバイトと大して変わらないかもしれません。
ですが、今の職場は周りに気さくな人が多く、ストレスも少ないので、収入は決して多くはないのですが満足しています。

ところが、困ったことになりました。
数ヶ月前に新しい人が入社してきました。そしてさらに、最近になって一部業務が廃止になったのです。つまり人が余ってしまっている状況になったのです。そして当然、個々の勤務時間が減らされました。
私たち契約社員は時給で働いていて、残業分も大きな収入だったので、今回の事態は私にとってかなり大変な出来事です。
しかし会社側も、そこは理解してくれたみたいで、本来の業務以外も行う案が提示されました。平たく言えば雑用で、例えば最近新しく完成した新事業所内の清掃作業などです。
私にすれば、勤務時間を減らされて収入が減るより、雑用でもなんでも、仕事をさせてもらえれば嬉しいのです。

ですが、一部の契約社員の人からは、それに反対する意見がでました。
なぜ自分たちが本来の業務以外の仕事もやるのか、しかも清掃など自分たちがやる必要はない。仕事が減って早く帰れるなら早く帰りたい。わざわざ残って、関係のない業務までしたくない、などの意見です。
一方で、雑用をやらなければ、人が余っている状況なので、何人か契約を切られるかもしれない、という噂も流れてきました。

連日、同僚の間でも、この話題が上がっています。
私は勤務時間を確保してほしいので雑用賛成派です。ですから「雑用も引き受けなきゃ、誰かが首になるかもしれない」「掃除を断ったら、収入が激減するよ」と、雑用反対派の人と話しをしました。

ですが先日、その話を同僚としている時、ふと妙な感覚に襲われたのです。違和感と言えばいいのでしょうか。簡単に表現すると、このような感じです。
「いったい自分は、何を話しているんだろう」

その日帰宅し、その時感じた「妙な感覚」について考えました。

*   *   *

仏法を聴聞する中で、人の命はいつ尽きてもおかしくない、という話を何度も聞いてきました。明日も生きているという保証はありません。いえ、一時間後も生きている保証はないのです。
なかなか自分のこととして、そうは思えないのですが、否定できない事実です。
今日が人生最後の日かもしれない。もしそうだとしたら、その最後の日に私が考え、心を奪われていたことは、勤務時間が減って収入が減ることであった、ということになります。

私はこれまで60年近く生きてきました。私にとっては長い長い旅でした。
楽しいことも沢山ありました。辛いことも思い出されます。色々なことをやりました。多くの人たちと出会いました。その時々に様々なことを考えて、苦しみもがき、よろこび笑って、ここまで生きてきたのです。
そしてその人生最後の一日に、勤務時間が減って収入が減ってしまう問題に心を奪われ、そのまま死んでいく、それでいいのだろうか。勤務時間の問題は、そこまで大きなことなのだろうか。
そう考えたら、今日一日が、とても空しいものに感じました。

会話にしてもそうです。
これまで生きてきて、様々な人と出会い、会話をしてきました。記憶に残っていない、日常的な内容がほとんどですが、若いころ友人と真剣に語り合ったり、恋愛しているときには自分の思いを緊張しながら伝えたりしました。最近では、仏教について人と話す機会もあります。
そして、人生最後に人と交わした会話が、勤務時間の問題だとしたら、これほど寂しいことはないでしょう。

私が感じた「妙な感覚」とは、そういう思いが心の奥底から働きかけてきた結果な気がします。

私はもうこれ以上、このことを話すのはやめよう、と思いました。もちろん意見を求められれば自分の意見や要望は伝えるにしても、こちらから話題にあげたり、誰かを説得するようなことはやめよう、と思ったのです。
すると、勤務時間が減る問題は消えはしませんが、少しだけ心が軽くなった気がしました。

人生最後の一日を、もっと心が穏やかに過ごせて、できればその一日に何かしらの意義を感じられればありがたいことです。
もちろん、そう上手くいくとも思っていません。むしろ、そういう心穏やかで充実した気持ちのタイミングで「死」を迎えられる確率は、かなり低いでしょう。私には、日々の生活があり感情がある、つまり煩悩具足の凡夫ですから。
それでも、ほんの少しでも、空しい一日で人生が終わらないように心がけたい、そう思うのです。

(その2に続く)

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