残された人生の生き方を求めて

平均寿命まではまだまだですが、50代後半に差し掛かって、残された時間で、本当に知りたかったこと、そしてその答えを探していくなかで、お念仏に出会いました。私の考えたことや、その手助けになった本や体験を書いていきたいと思います。

最近の出来事から(その2 念仏の利益)

その1の続きです。

thinking-about.hatenablog.com

ほんの少しでも、空しい一日で人生が終わらないように心がけたい。そう思い、今回の件について、自分の意見をこれ以上主張するのはやめようと思いました。
そう思えるようになって、気持ちが落ち着いてくると、また新しい見方も生まれてきました。

今回の件も、結局は自分の都合でしかないのです。
私は雑用反対派の人に対して、雑用を引き受けなければ誰かが首になってしまう、みんなの収入も減ってしまう、と話しました。また、会社から提示されているのに、なぜ従わないのか、と不満にも思いました。
ですが結局、私の収入が減ってしまうことが私にとっての問題なのであり、私の主張はそういう自己都合から出たものだったのです。
そして、雑用をしたくない人も、その意見は自己都合からのものです。私もみんなも同じなんです。

また私は、こうも考えていました。
私たち契約社員が清掃をしなければ、会社は外部の清掃業者に委託することになるかもしれない。そうなれば会社にとっても経費が増えてしまい、会社のためにも私たち契約社員が雑用を引き受けた方がいいのではないか。
ですが、私が心から会社のためを思っていたのかは疑問です。
やはり私は、自分の損得を考えて、それを正当化するために、この方が会社にとってもいいことなんだ、と考えた気がします。

また仮に、清掃業務を外注することになったら、確かに私たちの収入は減り、会社の負担も大きくなるかもしれません。ですが、委託された業者とそこで働く人たちは仕事が増え、収入も増えていくわけです。その人たちにとってはプラスなはずです。
結局、誰かが泣けば誰かが笑い、誰かが損をすれば誰かが得をする、その道理が現実生活の中で繰り広げられるだけのことです。

同僚との会話の途中で「妙な感覚」を感じた別の一因は、ここにもあるのかもしれません。
自分の主張していることは、実は単なる自己都合から起きていて、同僚たちや会社のためにという思いからではないのです。
そして、そのことに自分も心の奥底では気が付いていた、そういうある種の後ろめたさも感じていたからこそ「妙な感覚」に襲われたのかもしれません。

とは言っても、私自身の収入が減ってしまうのには、やはり不安や抵抗はあるし、その心まで消し去ることは難しいでしょう。
ですが、今回の件について、私はすでに自分の意見は周りに話しました。これ以上、自分から何かを言う必要はないと思えるのです。あとは、なるようにしかならないのですから。
その1でも書きましたが、そう思えるようになって、むしろ心が軽くなった感じがしたのです。

*   *   *

こういうことに気付いて考え方が変化して、心が軽く感じられるようになるのは、やはり念仏の利益なんだと思います。
ここで念仏を出すと、読んでいる人は「?」と思うかもしれません。
私がこの記事で書いた内容は、別に念仏を唱えなければ分からないことではありません。
ですが、同僚と話しているときに「あれ?何か違う…」と気が付くことができた、そのことが私にとっては大きいのです。

10年前、私はすでに『歎異抄』を通して、浄土の教えを知っていました。ですが、念仏はまだ唱えていませんでした。
そして今思い返すと、そのころの私は日々、自分の主張をいかに通すか、どうやってあの人を説得するか、いかに自分に有利な状況を作れるか、そのことばかり考えていました。もちろん、それが自分のため、そして周りのためにもなると思っていたのです。
そして振り返った今、そういう日々は決して楽しい日々ではなく、常に心に焦りや不安を抱えていたように思います。
その当時の私は、仏教や浄土の教えを知識としては知っていても、それが日々生きていく中には生かされていなかったのでしょう。

私は今、毎日念仏を唱えています。
念仏を唱えると、阿弥陀仏が建立された浄土、つまり私が目指すべき真に苦しみのない世界はどのような世界なのか、そして私自身の今のありかたはどうなのかを意識せざるを得ません。
10年前の私ならば、今回の出来事で、このような考えに至ることはなかったでしょう。おそらく、いかにして雑用反対派を説得するかで頭がいっぱいになっていたはずです。
そして、その言い争いや駆け引きの中で、さらに心は重く苦しくなり、不安は増していったと思うのです。

まさに、阿弥陀様が救ってくれたのだと思います。