残された人生の生き方を求めて

平均寿命まではまだまだですが、50代後半に差し掛かって、残された時間で、本当に知りたかったこと、そしてその答えを探していくなかで、お念仏に出会いました。私の考えたことや、その手助けになった本や体験を書いていきたいと思います。

『死は存在しない 最先端量子科学が示す新たな仮説』を読んで(その2)

(その1からの続き)

thinking-about.hatenablog.com

こんなことを書くと、私が随分と格好のいいことを書いていると感じられるかもしれません。「弱者の味方」を気取っていると感じる人もいるかもしれません。
ですが、今ここに私が書いていることは、私自身の体験から、正直に感じていることです。

過去の記事でも何度か触れましたが、私は数年前、破産、離婚、子どもとの別れを体験して、多くのものを失いました。そこで初めて、気が付いたのです。
自分も他人に対してひどいことをしてきたじゃないか、他人を踏み台にして自分の成功や利益を追求してきて、いい思いもしてきたではないか。そして、今度は自分がすべてを失う立場に立たされているのだ、と気が付いたのです。

かといって、今の自分は、他人の痛みが分かる人間になりました、人を踏み台にするような人間ではなくなりました、とは思えません。
自分の失敗を通して、人を踏み台にしてきた過去の自分の在り方を知らされたといっても、「心を入れ替えて、今の私は変わりました」などとは言えません。きっと今の私も、そういう在り方をしているはずです。
なぜなら、過去の私も「人を踏み台にして、自分のやりたいことをやり、欲しいものを手にしてやる」などと考えていたわけではないからです。

おそらく私は、そういう在り方しかできないのでしょう。
いえ、人が生きるということ、もっと広く言えばあらゆる生物が「生きる」ということは、他の存在を犠牲にして、踏み台にするしかないのではないでしょうか。
そして、そういう在り方は、いつか必ず自分の苦しみになって帰ってくる、と私は自分の失敗体験から感じました。いくら順調に物事が進んでいても、いつか今度は自分が他の人から踏み台にされ、あらゆるものを奪われることになります。
生きていくことは、奪い合いの中に身を置くこの苦しさから逃れられないのではないでしょうか。

私が失敗と挫折から気が付いたことは、そういうことなのです。
そして、その苦しみからどう抜け出せるのか、奪い合いの中からどう抜け出すのか、抜け出せないならば、そこからくる苦しみを少しでも和らげることはできないのだろうか。
その答えを求めるなかで、宗教に、私の場合は「念仏」に出会いました。

この本、『死は存在しない 最先端量子科学が示す新たな仮説』には、そのような苦しみから抜け出す問いかけはありません。
繰り返しますが、この私の指摘は、この本の主題から外れている気はします。
ですが、この本は「科学」と同時に「宗教」も対象としています。「宗教」を対象とする以上、私が指摘している内容も無関係ではないと思うのです。

*    *    *

もう一点、気になることがありました。
田坂氏は冒頭に、「科学」と「宗教」の間にある深い谷間に、「新たな橋」を架けること、を願いとしてあげています。
しかし、なぜ「科学」と「宗教」に「新たな橋」が必要なのか、なぜ著者はそれを願っているのか、その真意は最後まで伝わりませんでした。

この会が行われた法然院で、以前、阿満利麿先生の講演を聞きました。その講演で阿満先生はこういう意味のことを話されました。その時の講演は過去の記事に掲載しました。

thinking-about.hatenablog.com

その時の言葉はこのようなものでした。

私たちは生きていく根拠が欲しいのだ。これさえあれば生きていける、そういうものが欲しいのだ。仏教にはそれがあるはずだ。

「これさえあれば生きていけるもの」という言葉の重さが、今でも心に残っています。
仏教をはじめとする宗教には、きっと「これさえあれば生きていけるもの」があるはずです。いや、それが欲しいからこそ、宗教に近づくのでしょう。
この「これさえあれば」というものは、お金ではない、地位や名誉でもない、家族でも、友人でもない。それらはいつかすべて消えていくものです。消えないもの、そして永遠に私を支えてくれるもの、それを求めた結果、私は宗教に近づいたのです。

田坂氏の「新たな橋」を求める動機は、どこにあるのでしょう。
私はこの本からは、「これさえあれば生きていける」ものを求めるような、必死の問いかけは感じられませんでした。著者が「新たな橋」を見つけなければいけない、という切実な気持ちは伝わりませんでした。

先ほども書きましたが、これが科学だけに関する本ならばいいのです。私がこれまで読んできた科学関連の本にも、常にこのような「必死の問いかけ」があったわけではありませんし、そもそも、そういう内容を求めて科学関連の本を読むことはないでしょう。
ですが、繰り返しますが、この本は「科学」とともに「宗教」を取り上げています。それならば、そこには「これさえあれば生きていける」ものを求める切実な思いがあるはずだと思うのです。

こうなると、私が考える「宗教」と、田坂氏が考える「宗教」は違うのだ、という意見も聞こえてきそうです。そうかもしれません。でもそうだとしたら、この話はこれで終わりになります。

*    *    *

今回の会の参加者からは、内容に疑問を訴える声や、批判的な意見も上がりました。それらの様々な意見や感想の中から、この本をあえて題材に選んだ法然院住職はすごい、という声が上がりました。
確かにそうです。私も批判的な感想を書きましたが、この本を読むことによって、改めて、私にとっての宗教とは何なのだろうか、と考えさせられました。それを見こして、あえてこの本を選んだのだとしたら、本当に法然院のご住職はすごい、と感じます。

この本は宗教的な側面からすると、首をかしげざるを得ないところもあると思います。ですが、私にとって宗教とはなんだろう、という疑問に改めて向き合うきっかけを作ってくれました。
興味がある方は、ご一読ください。